1996年(平成8年)11月30日(土)〜12月1日(日)

 「高崎訪問の日」 {メンバー/柴田、島田夫妻、塩川夫妻}

実に久しぶりに、予備校時代の恩師大沢先生と、太田高校の先輩でもある永田さん達に会うため、高崎を訪れた。永田さんとは、俺達の結婚式以来一年半ぶり、大沢先生とは、おそらく10年近くぶりの再会だと思う。(昔「先生」って呼んだら「さん」にしろよって言われた覚えがあるので、話す時は「さん」って呼ばせて頂きますが、ここでは「し組」の恩師ということで「先生」と書かせて頂きます)。

まず、この人達とのことを語る上で大きな共通項というか、出会いのきっかけというのは、元をたどれば予備校時代、群馬英数学舘時代の我々「し組」が誕生した年に遡る。大沢先生は英語の先生で、どんな内容の授業だったかというと、、、?、まっ、とにかく受験英語を教わるというより、講義の合間のいわゆる脱線話でいろいろ勉強させてもらった。おおげさに言えば人生哲学というか、生き方、遊び方?等、その後二十代の青春時代を過ごす上で、大きな影響力を受けた。なかでも「野生の学校」を紹介してもらった事は、俺だけでなく「し組」メンバーも、大きな悪影響を受けることになる。否、否、楽しい思い出となったのだ。

正確には、俺達が「野生の学校」に初めて参加したのは、翌年、大沢先生が「小野池学院」に移ってからで、小野池学院の浪人生十数名?に混じり参加した。(島田は小野池学院の生徒だったけど俺と柴田は赤羽一年目の生活を送っていた) 「野生の学校」のことを良く知らない人の為に、ごくごく簡単にほんのちょっぴり説明しておくと、夏休みに主に都会の子供達を連れて、福島の山奥で自由なキャンプをさせて大人も一緒に遊ぶという団体で、元々は二十数年前?プロテックという会社が(社長は野生の学校のメンバーの山田さん)営利目的を兼ねて始めたらしい。その後、当時学生アルバイトでキャンプの手伝い等していた人達や、その友人知人らが中心となって、毎年夏のキャンプを中心とした活動を行ってきている団体である。類は友を呼び、個性豊かなといえば聞こえがいいが、個性が強すぎる世間離れした人達が大勢いる。子供の頃からキャンプに参加しているスタッフもいる。

そんな「野生の学校」に、この年「高崎組」として大挙して乗り込んだ訳だ。新宿東口の「西武」という大きな喫茶店がミーティングの場で、初めてのミーティングの時は、元々のスタッフより「高崎組」十数人の方が多いくらいだった。俺達も、最初は年齢層10代〜50代という個性豊かなスタッフ達に戸惑いながらも、如々に慣れ親しんでいき、友達になってからドップリと浸かるまではあっと言う間だった。今まで全く知らなかった新宿ゴールデン街などが、俺達の生活に入り込んできた。何年かは「大きな、し組サマー」が続いた。年々「高崎組」のメンバーは減っていったが、それでも大学を卒業するくらいまで、二十代前半は結構交流があった。就職してからはほとんど会う機会も無くなってしまったけど、みんな元気にしているのだろうか?(大沢先生も気にかけてるよ!)

永田さんとの出会いも、この年の「野生の学校」だった。高崎で塾を経営する永田さんと相棒の網中さんが、やはり大沢先生の紹介でキャンプに参加したのだ。その後、永田さん達の塾のキャンプ、バラキ湖の「ムーミン谷ハイキング」にも参加させてもらったり、年に一、二回柴田と一緒に永田さん宅におじゃまさせてもらい、塾関係の人々とも酒を飲んだり遊びに行ったりと、交流をもってきた。

永田さんのまわりには、萩森さん、荒川さんをはじめ、実にユニークな様々な人達がたくさんいる。俺も高崎に住んだら楽しい生活送れるだろうなあと、真剣に考えたりする程である。

今回は、考えてみるともう約二年ぶりの訪問となる。前回おじゃました時は、まだ生まれたばかりだった永田家長男の光穂君も、もう二歳で、消防車を「ボウボウ車」と言えるまでに成長していた。そして目がパッチリのすごく可愛い子で、美弥子さんは本気で「もらえないかなあ」などと言っていた。

 永田さん宅には、柴田と俺達夫妻で訪れた。柴田が先に、ある事をするために夕方頃到着した。それは何かというと、実は永田さんと会っていなかった間に、俺達も光穂君程では無いにしろ、多少進歩した事があるのだ。否、多少というのは俺の事であって、柴田は大変な進歩を遂げていたのだ。それは「パソコン」である。この一年で五台?のパソコンを買ってしまう程の熱の入れようで、パソコン通信で中古車を買ったりするのは、彼にとっては朝飯前である。秋葉原をこよなく愛する「電脳青年!」(永田さん曰く)になってしまったのだ。

そんな電脳柴田君が、今回は永田さんのノートパソコンを、パソコン通信ができるように設定するために、先におじゃました訳だ。結論から先に言うと、設定は無事成功してパソコン通信ができるようになったのだが、一度設定できたはずのものが、翌朝なぜか動かなくなったりして、「酒がきれたからじゃねーか?」なんて言ったりして、悪戦苦闘は合計8時間以上かかったのではないだろうか?。その熱中度も凄いが、結局直してしまうところがさすが「電脳青年」である。

俺達夫妻は、美弥子さんの仕事が終わってから行ったので、到着したのは8時半頃だった。おいしい鍋をごちそうになり、後からほうとう(上州名物煮ぼうとう)も入れてもらって、腹一杯になった。奥さんどうもごちそうさまでした。ビールもご馳走になっちゃって。

これで今日も一日が終わり、、という筈も無く、10時頃「雅」という永田さん達のいきつけの居酒屋へ行く。ここで太田の塾で授業を終えて戻ってきた、萩森さんと、荒川さんに、久しぶりに再会する。二人共元気そうだった。萩森さんは最新型の「98」(パソコン)を買ったとかで、柴田とパソコン談義に花を咲かせていた。現在中学校の教師をしているという網中さんとも、久しぶりに会いたかったけど、お出かけのようで、今回は会えなかった。残念。

  深夜一時過ぎまで飲んでいたのだろうか、俺達夫妻は、あてにしていた永田さん宅近くのホテルが満室で、タクシーで榛名町のホテルまで行った。柴田は、永田さん宅に泊めてもらったそうな。


  翌日は、また永田さん宅に寄らせてもらい、柴田とパソコンとの格闘終了を待って、午後一時過ぎ永田さんに車で送ってもらい、大沢先生宅を訪問する。ちょうど島田夫妻が高崎駅に到着したらしく、奥さんが車で迎えに行ってくれるところだった。

「おじゃましま〜す」実に10年近くぶりの再会というのは、懐かしいというより、なんだか照れくさい感じのするものだった。「昔と雰囲気変わんねーなあ」なんて言ってくれたけど、心の中じゃおやじっぽくなったなあって思ってるんだろうなあ、きっと。だって当時の俺達と同じ年代の生徒と今でも接しているんだから。大沢先生の方は、足の具合が大分悪化しているようで歩くのが辛そうだったけど、それ以外は十年分の年をとったくらいで、相変わらずの酒飲みだった。でも内蔵は丈夫らしいので、おそらくは俺達の方が大分肝臓にダメージを受けていると思われる。ねっ柴田君!えっ?俺だけ?。

それから今日は幸運にも日曜日である。なぜ幸運かといえばほれ!競馬中継のある日曜日である。大沢先生といえば自ら「大沢狂介」を名乗る程のギャンブル狂。テーブルの脇にスポーツ紙が、、しかも二、三紙、、案の定馬券を買うらしい。しかも電話一本で知り合いの人に頼めるらしく、今からでも間に合うという。よせばいいのに俺も便乗させてもらって、、、結局いつも通り負けた。大沢先生様はというと、何とこれが大当たり!中穴を見事的中させて、10万円以上の大儲け!!久しぶりに儲けたらしいが、あっぱれ大沢狂介殿!!、、同じ馬券買っときゃよかった、、「勝ったからお金はいいよっ」って負けた分チャラにしてもらっちゃって、どうもすみませんでした。

そして折角だからと、そのチャラにしてもらった分で「西東三鬼の世界」という、俳人「西東三鬼」の本を買わせてもらった。なんと!この本の中で、三鬼の句とその解説「三鬼試論」を書いているのが大沢先生なのだ。先生のデビュー作だそうだ。西東三鬼なんて名前すら聞くのも初めてだし、俳句の世界自体を全く知らない俺にとっては、とても難しそうな本だけどじっくり読ませて頂きます。

それともう一冊「人間ステタモンジャナイヨ」という三十数ページ程の小冊子をいただいた。こちらは毎日新聞に応募した文を「小野池文庫」に採録したものだそうで、亡くなられた弟さんとボランティアの輪、ふるさとへの思い、大沢先生ご自身の病気と生について書かれている。この文章を読んでくれているあなた、是非お読み下さい。貴重な小冊子の為コピーを差し上げます。

さてさて、飲んべえどもはというと、山廃仕込みのおいしい日本酒一升をぐいぐい飲み干し、ビールやら焼酎やらと、ちゃんぽんになったらもうおしまい。えっ?これまた俺だけ?否、否、大沢先生だって結構酔ってましたよねえ。だって尾崎豊の話なんかすごく熱く語ってたし、それに俺の九州行きの話なんて、もう「行け!行け!行け〜!!」と、まるで邪魔者を追い出すかのように、第4コーナー回って直線一気に追い込め〜!とばかりに叫んでましたからねえ。まあ「分かりましたよ!行きますよ〜!!でもそれだったら絶対、旨いとんこつラーメン食いに来てくださいよ!!」と叫び返す俺も俺ですけどね。

十年の流れ去った歳月を埋めるべく、思い出話を中心に?(よく覚えてない)盛り上がった我々は、夜の8時過ぎに大沢先生宅を出る。「おひゃましまひた〜」井野駅まで、奥さんとたつき君(当時三歳位だったたっくんは、中学生のたつき君に成長していたのだった)それとワンちゃんに送ってもらい(大声で吠えていたのはワンちゃんではなく、どうやら俺だったみたいで、、どうもご迷惑お掛け致しましたワン!)。翌日、十年分の二日酔いがいっぺんに来たような、もの凄い二日酔い、否、三日酔い?に見舞われた事は、思い出したくないので書きたくないけど、自分自身への戒めの為にも付け加えておこう!、、と、格好良く?締め括ろうとするところ、、反省の色は無し、、妻の視線冷たし、、、と。

  と、まあこんな感じの「高崎訪問の日」でした。チャンチャン。と、終わらないんですねえ、これが。つづきがあるんです、つづきが。

  翌日、胃液まで吐き尽くして死にものぐるいで会社から帰宅すると、大沢先生から留守電にメッセージが、、「おまえ、大事なもの忘れたろっ」「は、はいっ、青春時代のフサフサした髪の毛を、、、」「...」 あっちゃ〜〜!!大事なデジタルカメラを忘れてしもた〜!!