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熊野古道 大辺路

田辺から風光明媚な海岸を南に下ります 

海岸を歩き、峠を越え田辺から那智勝浦の浜の宮まで。
山と海の両方の自然が楽しめます。

ギャラリー

無量寺・潮崎本之宮
大辺路の中程の、串本町無量寺にはすばらしい長沢芦雪の絵がたくさんあり、その中でも龍と虎の絵はすばらしい。
いずれも国指定重要文化財である。

江戸の中期、無量寺が大津波に流された。
当時の住職であった愚海和尚に若い頃大変世話になった応挙は今こそ恩返しの時と、弟子の長沢芦雪に多くの絵を持たせ、寺の再建を助けたという。
芦雪はその後も長く串本にとどまり、無量寺はもちろんのこと、近郊旧家などにも数多くの作品を残している。
私が子供の頃は、お盆になるとこの襖絵を一般公開し間近に見ることが出来た。
(今思うと複製だったかもしれないが)
初めてこの虎を見たとき、怖さで震えた覚えがある。
それくらいの迫力がある。
これまで多くの龍や虎の絵を見てきたが、ここの龍虎を超える絵を見ていない。
特に虎の絵は、虎を見たこともない人が、師匠に教えてもらって描き継いできたため、表情が虎でなくなっている場合が多いが、ここのは生き生きとして迫力に満ちている。
応挙芦雪館では収蔵作品の多くが重要文化財であることからその複製を展示しているが、別室のオリジナルも鑑賞することができる。
大辺路を歩く際には是非この無量寺をコースに入れて欲しい。
和歌山県が出しているコースガイドもここを通るようにガイドされている。

無量寺は、元は大辺路に近い串本の町の袋というところにあったが、津波で流され現在の位置に建て直したという。
串本の商店街を抜け、狭い通りの一角にある。
しかし、南国風のソテツやシュロの植え込み、さらに入り口の現代彫刻のブロンズ像をなどがあり、いわゆる「寺」というイメージとは重ならない明るさや開放感を感じる。
これは先々代のご住職が、美術に造詣が深かったためである。
このお寺は、虎関禅師の開山による臨済宗東福寺派の紀州でも屈指の大寺で、旧串本の町民がほとんどすべて檀家である。

昔この寺の横に幼稚園があり、私はそこに通った。
当時の面影を残すものとして、ソテツやフェニックスの木がこの寺の駐車場にそのまま残っている。

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私のブログに、「雫水クシー9」さんから書き込みをしていただいて、串本の盆踊りの歌詞の全貌がわかった。
まさに防災伝承の歌詞で、苦労してこの寺を維持してきたのがよくわかる。
そのまま転載させてもらった。

無量寺 由来記(盆踊り歌 歌詞)

1.紀州熊野の袋のみなと 艫綱(ともずな)取って庵(いおり)たたずむ
2.今は昔のお江戸の頃よ、富士のお山の宝永山(ほうえいざん)が
3.起こす津波に、さて流される。忘れしゃんすな宝永津波、
4.錦江山の沖合ふかく、安まりたまえ、鎮(しず)もりたまえ
5.数えきれない腕の上に、木立ちそびえて、いらかが光る。
6.聞いておくれよ荷物にゃならぬ愚海和尚の残した記録
7.先の住職 松山和尚、この地に移して仮屋を構え
8.寝食忘れて再建はかる。集め給いし施物(せもつ)を元に
9.数珠に願いを幾星霜 見上げるみそらに朝日が射して
10.銀の甍(いらか)がそりゃまぶしくて、ついに再建、大願成就
11.晴れて無量寺この地に建って、田舎なれども、いと誇らしや。
12.時は移りて打ちくる風に、さすがの本堂、傷痕深し
13.夜に至れど風なお止まず、如何に暴風、恨みは深し
14.愚海和尚は膝打ち震い、皆に相談持ちかけたれば
15.もとより貧しき村ではあるが檀越大小(だんえつだいしょう)力を合わせ
16.呼応する声、湧きあがりたり、十と一年、仰ぎて涙
17.京の都の円山(まるやま)様が、快挙、快挙と芦雪(ろせつ)を遣(や)り
18.水は山越し一雨(いちぶり)の谷、筆は変幻、妖しく走る。
19.ここに護法の守りは固く、寺の礎(いしずえ)永久(とわ)にと願う。
20.夏とはいえども霜雪(しもゆき)やまず、天保の飢饉も乗り越え候。
21.されど南崖(なんがい)、雨風荒く、時に阿修羅の狂うがごとく
22.頃はあけぼの、幕末近く、瓦礫(がれき)数えてひれ伏すばかり
23.村の住職 陽冥(ようめい)和尚、徳望篤くて人よく慕う。
24.檀家一同、膝寄せ合って、またも本堂を引き起こしたり
25.時は近代、明治に至り、法灯絶えず、人よく慕う。
26.のちに山門、石垣成って、衆知を集め心は和む。
27.ときの棟梁、風対策に、五寸押さえて知恵しぼる。
28.晴れて菩提寺、朝日を受けて、田舎なれども、いと誇らしや
29.安め給いし御仏(みほとけ)様よ。安め給いしご先祖様よ。


−−−−−終わり
「雫水クシー9」さんは文章の終わりをこう締めくくっておられました。

南海トラフの大地震、大津波が来れば、今の位置でも無事とは言えますまい。
その時には生き残った人々の手で、この盆踊り歌の三十番の歌詞が作られるのでしょうか?

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まさにそうです。「田舎なれども、いと誇らしや」という部分が泣ける。
熊野古道 大辺路 串本町 無量寺
(本堂)
熊野古道 大辺路 串本町 無量寺
(三門)
熊野古道 大辺路 串本町 無量寺
(子供のころからあったフェニックス)
熊野古道 大辺路 串本町 無量寺 tora.jpg
(長沢芦雪がふすまに描いた虎)
※串本町観光パンフレットより転載
熊野古道 大辺路 串本町 無量寺
(仏壇前にある。この龍ににらまれながら法事)
熊野古道 大辺路 串本町 無量寺
熊野古道 大辺路 串本町 無量寺
(観音堂)
熊野古道 大辺路 串本町 無量寺
熊野古道 大辺路 串本町 無量寺
<潮崎本之宮>

この神社は、私がずっと遊び場であり、祭礼の際の神域であった。
10月の例祭にはみこしを担いで街中を練り歩き、この神社で奉納の獅子舞を踊った。
私は、笛も太鼓も舞もできなかったので、ひたすら神輿を担いでばかりいた。

この神社は、『延喜式』に記される牟婁郡内の海神三神を祀る古社で、古代より海上交通の守護神として崇敬されていた。
和歌山県神社庁によると、社伝には、

「神功皇后三韓を伐ちて御凱神の帰途、都で忍熊王の謀反をおこしていると知り、皇后は武内大臣に皇子(応神天皇)を守護し紀伊に趣かしたが、南海に漂うた末に当地の旧名大水門浦に着かれ、そのときに当地に住吉三神の大神を祀られ海神社御本之宮と称した」
神領は往昔7反であったが、天正年間以後2石となった。
江戸時代は海神社とか本ノ宮といわれ、大島・出雲・串本3ヵ村の氏神として崇敬された。
明治初年の神仏分離の動きの中で、社名を現在の潮崎本之宮神社と定めた。」


とある。
文化財には、
 ・潮崎本之宮神社棟札(町指定)
 ・潮崎本之宮神社御的祭(町指定)
 ・樹木「柏槇」(樹齢1200年 町指定天然記念物)
 ・櫛筥(伝神功皇后奉納 櫛 壷〈古瀬戸〉2)

などがある。
熊野古道 大辺路 串本町 潮崎本之宮

熊野古道 大辺路 串本町 潮崎本之宮
(樹齢1200年の柏槇)
熊野古道 大辺路 串本町 潮崎本之宮
(恵比寿社)
熊野古道 大辺路 串本町 潮崎本之宮

熊野古道 大辺路 串本町 潮崎本之宮
熊野古道 大辺路 串本町 潮崎本之宮
(拝殿)
熊野古道 大辺路 串本町 潮崎本之宮
(串本高校)
我が母校串本高校である。
あまりいい思い出はない学校ではあるが、やはり母校というのは懐かしい。
昔は木造と鉄筋の校舎が半々で、拭き掃除なども一応した。
写真の笛吹童子、これは私が美術部の仲間3人で、作り上げたもので、できたときはこの像の後ろに滝があってきれいだった。

それから2017年でちょうど50年経つが、こうして残しておいてくれたというのは作ったものとしてうれしい。
熊野古道 大辺路 串本町 潮崎本之宮
(笛吹童子。私たちが作った。よく残ったものである)