熊野古道 御坊2
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田藤次王子~愛徳山王子跡~道成寺~岩内王子跡~塩屋王子跡

<田藤次王子>

田藤次王子(または善童子王子)は、高家王子から30分ほどで着く。
神社の入り口に大きな看板があり、「よい子神社」とある。
連同寺王子、田藤次王子、伝童子王子、出王子、出童子また若一王子と呼ばれ、人間の耳のあいまいさに加え紀州の人々の発音の特徴を物語る呼び名が一番多い王子えある。
「で」と「ぜ」の区別があいまいな紀州弁のなせる業か。善童子王子
地元では富安神社とも呼ぶという。

一般的には、善童子神社として祀られている。
この王子の格式は、五体王子に次ぐ准五体王子の一つで、大般若経六百卷を蔵する大社であったと伝えられている。
従って、神社の前庭はかなりのスペースがあって、昼食などの休憩にちょうどよいところです。
明治42年、湯川神社に合祀された。

神社の前庭はかなりのスペースがあり、昼食などの休憩にちょうどよい。

河瀬王子から、鹿ヶ瀬峠を越え善童子王子から愛徳山王子までの古道は、山中や田圃の中を行くため、家並みもしっとりとした瓦屋根が多く、非常に古道らしい雰囲気がある。
黒竹林やミカン畑が続き、道の周辺の景色もいかにも歴史を感じさせる。道もよく手入れがされており、地域の人々が古道を大切にしていることがよく分かる。

さらにうれしいことに、瓦屋根の軒下に熊野古道と書いた小さな提灯をぶら下げていることである。
道筋がよく分かり、古道ウォーキングするものにとってはありがたい配慮である。ここからは道成寺に向けて、愛徳山王子を抜け御坊市内を行くので、少し古道という雰囲気はなくなる。

<愛徳山王子跡>

愛徳山王子跡は、御坊市藤田町吉田の八幡山の北麓に位置する。
愛徳山王子へは善童子王子から少し広い道に出て100m程南の四差路を左折、家の間の狭い道は100mほどで広い道に出る。300m程行くと右に花壇、三叉路の古道標識のあるところから家の間の幅50cm程の細い道を進む。
愛徳山王子へは、藪を漕いで行った。
昼でも薄暗い竹薮を150mほど行った右側奥に広場がある。その広場のさらに奥に愛徳山王子跡がある。

紀伊名所図絵には「神名の愛徳(アタギ)は地名阿多木原より起これるにて、かの地に祀れるを上愛徳と称し、此の地に祀れるを下愛徳と称す。「御幸記」に愛徳山王子と見えたるは当社より分かち祭れる祠なるべし」とある。

碑もミカン畑の中にあり、ガイドがないと分かりづらい。
和歌山からこれまでずっと、古道のルートが変わっていたりすると非常に見つけにくい王子があったが、ここもその一つである。
ともかく、ミカンの香りが心地よい王子跡である。

愛徳山王子は、御坊市の資料によると、

「建暦2年(1212)に後鳥羽院庁が紀伊国在庁官人等に宛てた『後鳥羽院庁下文』によると、紀伊国日高郡にある薗宝郷は、地主永命なる人物の寄進にもとづき熊野山新宮領と認定されている。
薗宝郷の北限境界が愛徳山王子が所在していた周辺と考えられる。
明治時代に八幡神社(御坊市湯川町吉田)に合祀された。
 『後鳥羽院熊野御幸記(明月記)』(建仁元年(1201)10月10日)において、連同持(善童子)王子の次に「・・次又愛徳山・・」とこの王子社の名が初めて記されており、鎌倉時代初期には所在していたことがわかる。
また、『明月記』(元久2年(1205)正月1日)に「・・盛範愛徳山王子修造功・・」と熊野別当家の一族盛範が愛徳山王子を修造した功によって賞せられた記事があり、仁和寺蔵の『熊野縁起』(嘉暦元年(1326))には、准五体王子に位置付けられるなど鎌倉時代を通してかなり重要な王子であった。
 近世の記録を見ると、享保十年(1725)江川組社方書上帳に「愛徳山王子一社、是は往古より有来り候処及大破、慶安四年(1651)御尋被為遊其節境内三十間四方に被仰付、社鳥居御制札共御立被遊候其後御制札等朽損申候」とあり、さらに安永(1772~1780)ごろの吉田村書上にも同文で末段に「社鳥居大破におよび有之候」と附記している」

とある。

<クハマ王子跡>

クハマ王子は、くわま・クリマなどと呼ばれていた。クハマ王子
小松原宿所を控えた要所で、御幸建仁元年以降の由緒ある王子社であったという。
道成寺の伝説に取り入れられている。
驚いたことに、昔はこの辺まで海であったという。

ここで海女さんが海から観音様を拾い上げ、その観音様が道成寺にお祭りされている。
この王子から、JRきのくに線の線路が見える。
王子前の道は、川辺町や日高町とのバイパスのような道路であるため、交通量が多い。

道成寺へは、このクハマ王子社への道をいったん戻り、曲がらずにまっすぐ行く。


 道成寺

道成寺は、鐘巻とも呼ばれ、地元日高の心のふるさとであった。道成寺
場所は道成寺駅から250mほどのところにある。

春4月27日は、道成寺の鐘供養の会式でこの日は近隣の人々が弁当を下げてここに来る。
春の会式は人々の楽しい行楽の日であり、懐かしい人にも会える広場でもある。
昭和37年くらいまでは会式のために臨時列車も出るほどだったと聞く。
道成寺はまた観光客を引きつける文化財が数多くあるため、今や全国的な名所となり、参道には土産物が軒を連ねている。

本堂の建物は南北朝だが、寺の起源を訪ねると文武天皇の勅願という。
紀州の田舎になぜ、こうした由緒ある起源の寺が多いのかといつも驚いてしまう。
道成寺については、日本版シンデレラの「髪長姫(宮子姫)」伝説があるためといわれる。
いずれにせよ、古くから和歌山は注目に値する地域であったのは確かである。
境内からは白鳳・奈良の古瓦が多く出土し古い伽藍配置の跡も残っている。

石段を登り、江戸時代前期建立の仁王門(国重文)を入ると境内に本堂(国重文)、三重塔、護摩堂、書院がある。三重の塔は県内唯一のもので、そばには安珍塚がある。
本堂に安置された千手観音、日光・月光菩薩など秀麗な仏堂がたくさんあり、それらはいずれも国の重要文化財である。そして知らない人のいない、安珍・清姫のいきさつを絵巻にした「紙本著色道成寺縁起絵巻(国重文)」がある。
さらに弥生時代の銅鐸(県文化財)、色紙墨書千手千眼陀羅尼経(国重文)がある。
これほどいい仏像や文化財のあるお寺は、奈良や京都にも少ない。

もう一つの名物が宏海住職の、一回聞くと忘れられない名調子の絵解きである。
道成寺に行ったなら、この絵解き講話は是非一度、聞いていただきたい。
道成寺の文化財を、これまで守ってきた歴代住職さんに感謝しなくてはいけない。
これだけの寺と寺宝を維持していくのは大変である。

古道の王子社で、残っているのが少ないという現実を見るにつけ、歴史を保存するということの難しさを改めて知る。
そうした意味でも、道成寺はすごいと思う。
特に秀吉の紀州攻めにも、この寺を焼かせず守り通すには、当時の住職は相当な苦労をしたであろう。


2020年6月24日にバイクで、近くの「舞妃蓮の郷」へ言った帰りに何年ぶりかで参詣した。
写真がダブっているところもあるが少し補足の意味も込めてアップした。

 
 


 道成寺縁起
道成寺
安珍・清姫伝説は、すでにたくさんの人々が知っている。この過程を見事な絵巻にしたのが「道成寺縁起」である。
土佐派の巨匠が描き込んだ豪華絢爛の絵巻物は2巻ある。
安珍は先に舟で日高川を渡り道成寺に助けを求めて釣り鐘の中に身を隠す。
怨霊となり、執念で追ってきた清姫は許さない。
長い蛇身で鐘の巻き、恨みの炎で男を焼き尽くす。
そして我が身も命を断つ。

徹底した悲劇で凄惨な結末であるが、やがて二人は法華経の力で救われたと説き、悪世乱末の人に思知らさんがため、熊野権現と観世音が方便として示したものであると結ばれている。
熊野信仰の有り難さを強調している。

その暗示的、象徴的な物語から、信仰と教訓をカットし、ドラマチックに仕上げ舞台化したのが江戸時代の芸能で、ここから悲恋の道成寺、安珍・清姫物語が全国に広まったのである。  

<岩内王子跡>

日高川を渡って最初の王子である。 岩内王子坊市の日高川に架かる御坊大橋を渡ってすぐの交差点を右折すると、左手に「岩内コミュニティーセンター」があり、この建物の前に、「岩内王子跡」の石柱が建っている。
「焼芝王子神社旧跡」と書かれた碑がある。道の脇にあるが、注意しないと見過ごす。

このあたりは中世から近世にかけて、しばしば水害に襲われて旧社地は現在、河原となっているらしい。 大橋の通りに戻って少し南進した右手の小高い丘の上に「岩内1号墳」がある。
別名を「皇子古墳」と呼ばれている。
葬られているのは中大兄皇子のもとに謀反の罪で白浜に連行され、処刑された悲劇の皇子「有間皇子」ではないかと言われている。道は狭く、周辺の家並みも農家らしい旧家が続く。

岩内王子が文献にはじめて登場するのは熊野御幸記で

「河を渡りていわうち王子に参る。此辺りの小家に入る。」
と記されている。

017年4月2日に再訪したが、ページを書いていて気が付いた。
以前の説明板では岩内王子になっているのに現在は焼芝王子神社となっている。
どこでどう変わったのか知れない。
案内板の位置も変わっていた。
最新のガイドパンフレットにもこの王子の記述はなく地図上でも消えている。
何度か訪れたいと思うのはこういう変化があるからである。

 岩内1号墳
岩内古墳
ページを作るにあたり、見落としたところがいろいろあり、この岩内(いわうち)古墳群は、どうしても書き込みたいところであった。岩内1号墳は、横穴式石室を持ち、墳丘に沿って北・東・西の三辺に周溝をめぐらした一辺の最長が19.3メートルの方墳である。
7世紀中頃以降に造営された県内でも数少ない終末期古墳の一つという。
案内板には、

「・・戦後まもなく発見・調査され、木棺に塗られた漆の破片や銀装大刀、六花形の鉄製棺飾金具などが石室内で発見され、昭和54(1979)年度の調査では、版築(粘土を突き固める)という技法で墳丘の盛土が造営されていることや被葬者を安置した床面が7世紀後半頃に作り直されていることなどがわかりました。
昭和57(1982)年度に石室・墳丘を復元し、史跡としての環境整備を行いました。
被葬者は、木棺に棺飾金具や全国的にも数少ない漆塗の装飾がされていること、副葬品(銀装大刀)・造営の技法(版築)などから大変身分の高い人物であったと考えられています。 その候補の一人として、658年蘇我赤兄の謀略あるいは中大兄皇子(のちの天智天皇)の陰謀によって、紀伊の牟婁温湯(今の白浜温泉)に滞在中の中大兄皇子のもとに謀反の罪で連行され、処刑された悲劇の皇子「有間皇子」(640~658年)があげられています」


とある。
この日CB400SSで走ってきたが、ちょうど昼食の時間だったので丸太に腰をかけ、この古墳を眺めながら食べた。
この日持参したパンフレットは古く新しくできた道が書かれてなく、ルートもわからなくなっていた。
家に帰って最新のパンフレットを見ると、この古墳の記述はなくなっていた。
有馬王子ゆかりらしき古墳であれば、ぜひ入れておいてほしいと思った。
岩内王子 岩内王子
(確か以前歩いたときは道はなかった)
岩内古墳  岩内古墳
岩内古墳
御坊は案内板が少なく歩きづらい)
岩内古墳
(古墳の手前に環濠がある)
岩内古墳

<塩屋王子>

塩屋王子跡は現在、塩屋王子神社として、天照大神を祀っている。記録では、中右記の天仁2年(1109年)頃からで、建仁元年(1201年)の御幸記において「越山参塩屋王子・・」と記されている。塩屋王子
こうしてみると社歴は古い。

また別称「美人王子」と呼ばれている。主祭神である、天照大神の美しい神像が祀られていることから、「美人王子」と呼ばれるようになったと伝えられている。
毎年10月の秋祭りには、巫女舞が奉納される。

後鳥羽上皇一行は、建仁元年10月9日、御坊の重輔庄に宿泊し明くる10日に、ここ塩屋王子に詣でている。ここまで1週間、定家もだいぶ疲れてきた頃だと思う。
2017年4月2日にCB400SSで再訪した。3回目である。何か行事をした後らしくバーべキューの片づけた跡があった。
塩屋王子訪問したときは、上品な女性が社務所におり、謂われを書いたビラをくれた。
それには、

「塩屋王子神社は、旧熊野街道に面し、「熊野九十九王子社」の中でも由緒ある神社です。昭和三十三年(1958年)四月、和歌山県教育委員会と御坊市教育委員会から史跡として文化財の指定を受けています。
さらに神社周辺の社叢(しゃそう)は団地性の常緑樹林で、沿海暖地の天然林として、昭和五十七年(1982年)5月、御坊市教育委員会から天然記念物として、文化財の指定を受けています。
祭神は天照大御神ほか十一柱ですが、主神の天照大御神の神像が美しいところから別名を「美人王子」と呼ばれてきました。
和歌山県指定文化財の中にも、「熊野九十九王子社の一つで別名美人王子ともいわれ・・・」と書かれています。
また古い記録の中にも、「来ル菊月四日美人王子宮御祭礼の節・・・」などの記録が残っています。
人間は、特に女性は心優しく健康で美人であることは、大きな憧れであり生涯の切なる願いでもあります。
この由緒ある美人王子に因んで、昭和五十五年(1980年)から「美人祭り」を実施して参りました。
祭礼の当日は、小学校の女児が巫女装束をまとい、神楽に合わせて巫女舞(越天楽)を神前に奉納しています。
祭礼当日参加できなくても、誰でもいつでも神様の御利益にあずかれるよう、美人王子の「絵馬」を着くって希望される方にお頒けしています。
                             塩屋王子神社   美人王子神楽保存会」


とあった。

境内はきれいに掃除がされており、気持ちがよかった。
また社務所の中には祭礼に使う御輿がおかれており、私がカメラを向けると、丁寧に窓を開け、見やすくしくれた。
やはり社務所に人がおられるのはありがたい。
その土地のことなどがよく分かる。

なお、祭りは毎年10月の第3土、日曜日に行われるという。

塩屋王子
(塩屋王子神社鳥居)
塩屋王子
(2017年4月2日 今度はバイクで)
塩屋王子
(2017年4月2日)
塩屋王子
(2017年4月2日)
塩屋王子
(王子碑)
塩屋王子
(祭礼に使う神輿)
塩屋王子 塩屋王子

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