明治23年9月14日(日曜日)午後一時横浜を出港し、一路母国イスタンブールに急ぐトルコ軍艦があった。
サルタン・ムハメッド5世の勅命を受けて明治天皇に対し、トルコ最高の名誉勲章奉呈のため同年6月7日横浜港に到着し、3カ月間日本での歓待を受け、日土親交の大役を果たした後、栄えある帰途につく特派大使海軍少将オスマン・パジャ 一行のエルトグロル号であった。
9月16日(火曜日)熊野の海は、朝から風雨が激しく荒れ模様であった。
夜になりさらに風雨は激しくなり、怒涛にもまれてエルトグロル号は進退の自由を失い、大波に翻弄されながら樫野崎灯台下の船甲羅の岩礁へと闇の中を押し流されていった。
この船甲羅こそ、昔から航海者にとって海魔として恐れられていた岩礁であった。乗組員の必死の努力も空しく、同夜9時頃艦は真っ二つに裂け、10時半頃に沈没した。
オスマン・パジャ以下650名が海に投げ出された。
そのうち士官ハイダール以下69名は、波濤の中、艦の破片にすがって約3時間ほど漂流し、樫野崎灯台下の俗称鷹浦にはい上がった。そして灯台に助けを求めたのである。
嵐の夜、裸で赤ら顔の、波にもまれ傷つき血走った目の闖入者に、看守はしばし呆然としたが、前夜来の暴風雨から付近で難破した外人であることを察し、遭難者に手当を施し始めた。
言葉が通じない上に混乱状態の中で、灯台技師瀧沢正浄は、万国信号ブックを見せてやっとトルコ軍艦であることがわかった。
これより先、樫野区民高野友吉が海上方面からの爆発音を聞き、これを灯台看守に知らせるために駆けつける途中、異形の外人がよろけながら歩いているのに出会い、その人々を助けるとともに、区民に通報し協力しあって介抱を行った。
こうして17日の朝までに救いを求めてきた遭難者は69名であった。
嵐の夜半、通信手段も救助のための機材も満足にない離島であり、方策もたたなかったが、あり合わせの着物を着せ、傷の治療をしながら夜明けを待ったのである。
明け方、大島村長沖周、古座分署長小林従二に急を告げた。
そのうち須江、大島両区民も急を聞き応援に駆けつけた。
折良く居合わせた熱田共立汽船防長丸渋谷梅吉船長のたどたどしい通訳で、沈没した船が、エルトグロル号2344頓、600馬力、大砲を20門積む木造軍艦であるということが、断片的であるが初めてわかった。
乗組員は650名であった。沖大島村長が直ちに県庁に打電するとともに、樫野、須江両区長と協力し、生存者を急造の担架で大島区の蓮生寺に送った。蓮生寺では、村医小林建斉、伊達一郎、松下秀等が治療に当たった。
避難の将卒69名中健全なもの6名、軽傷63名であった。大島村民は各戸に蓄えている甘藷と、飼っている鶏を提供した。幸いなことに村民のうち堅田文右衛門が、洋食調理の心得があり、コック役を務めた。
乏しい大島の食料は遭難者のために一夜にして底をついてしまった。それにもかかわらず村民はこれら遭難者のため、蓄えている食料すべてを喜んで提供したのである。
食料の次に困ったのは衣類で、村民はありたけの浴衣を出し合い急場をしのいだ。
6尺(185センチ)豊かな大男がちんちくりんの浴衣を着ている様は、悲壮感いっぱい漂う中でただ一つの笑いであった。その後一週間にわたり人夫百数十名により、他の遭難者の捜索につとめ、アリーベ艦長ほか219名の遺体を収容した。オスマン・パジャ以下残り362名はついに遺体すら発見されず、遠く故国を離れた異国の大島樫野の海底深く眠り続けている。
発見された遺体は、ハイダール士官立ち会いのもとに、遭難した船甲羅が真下に見える樫野崎の丘に埋葬した。
翌明治24年(1891年)、県知事ほか有志により義援金が集められ、墓碑と遭難追悼碑が建てられた。同年3月7日に追悼祭を行い、遭難した人々の霊を弔った。
(記録等串本町資料および観光パンフレット参考)
昭和12年6月3日には現在の碑に改装され、昭和39年11月にはトルコのヤカケント町と姉妹都市縁組み、昭和40年には樫野小学校とヤカケント小学校の姉妹校縁組みが成立し、遭難碑を中心に友好の輪を広げていった。
なお、碑が建立されて100年以上経つが、樫野小学校の児童がずっと墓地の清掃を続けている。
この悲しい出来事の記録と、日本とトルコ修好を記念して串本町大島に記念館が建てられている。
これは個人的なことだが、息子がトルコへボランティアで行き、トルコ地震の震源地であるイズミットにおり、地震の直撃を食らってしまった。
山中に逃げ込んで難を逃れたが、そこではトルコ人に服や食料を提供してもらったという。
聞けばやはりトルコ人は、このエルトグルル号の遭難のことで日本人に対し、かなり恩義を感じているという。
人助けは、いつか自分に回ってくる。 |
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