後追い北海道探検 2000May
あなたは本多勝一の「北海道探検記」なる本を読んだことがあるだろうか。
私がこの本を読んだのは多分1980年代後半だったと思う、その時、北海道民ならば疑問を感じるはずの、物々しい題名に注目したことを覚えている。そう「北海道は探検の対象だったのか」・・・

私は四十八年間、北海道で道産子として生活してきて、知床と道北のオホーツク海岸方面へは、一回も行ったことがなかった。
今年のゴールデンウイークは妻が妊娠8ヶ月であることから、飛行機を使う旅行を止めて、足元の北海道を見直す旅に出た。
札幌はバリバリの都会だが、道東の北海道らしさは知っていた。その、北海道らしさを感じることと合わせて、本多勝一が訪ねた北海道の一部を再訪してみようと考えた。
特に、「北海道探検記」で私を凝視させたのは、サロベツ原野、猿骨部落、岡島部落、飛行場前駅だった。

昔は、見渡す限りのアヤメ、ノハナショウブやオウギアヤメだったそうな

1988年には砂利道だった稚咲内


ランチをとる

サロベツ原野

5月4日久しぶりのサロベツ原野を訪ねた。前回10年以上前に、利尻山の西壁を登攀したあと、帰札時に通過しただけで、とにかく車が少ないとこだった印象が強く残っていた。かし、今回はとにかく、主要国道並みに車が往来するのに驚いた。

本多勝一は本の中で2回訪問している。1回目は1962年頃、2回目は1983年である。彼は「ああサロベツ原野」と命題し嘆いている。21年前は「稚咲内に出ると、周辺は見渡す限りのアヤメ、ノハナショウブやオウギアヤメばかり、他の草はほとんど交じらぬアヤメの花だけが、大湿原を紫色におおって地平線までつづいているのだった」と。
続いて2回目の訪問では「今はどうか。その同じ地に、立派な標識が立っている。『利尻礼文サロベツ国立公園―環境庁』・・・・まさか。これがかつての稚咲内だろうか。アヤメなど1本もないのだ・・・・」「これも数年前の排水溝工事の結果だと」。

2000年に私たちが見たサロベツ原野は熊笹と、芝に変わり私たちは、その中に車を乗り入れ、ランチを作った。長大な砂丘は単なる土手に変わっていた。紫の数本のエゾエンゴサクをかすかに発見できた。10年前は一部砂利道だった国道を高速で駆けぬける車と、ぼやけた利尻山が様変わりを物悲しく伝えていた。

猿骨部落

5月5日に訪れたのは猿払村の「猿骨部落」。本では1950年に七戸が政府の政策により入植し60年には十六戸が入植、離農を繰り返して残ったとされている。

北海道開発の名のもとに巨額の資金がつぎ込まれたことを本多勝一氏は批判している。
開拓者の柴田さんを訪ね、泥沼となった借金地獄をレポートしている。

しかし、今は、整備された道路と牧草地があるだけで、まったく生き物の気配を感じることができない世界だった。足を踏み入れたとき、私たちは、昨年行ったメキシコの未開の地を思い出した。「まるで日本ではなかった」「北海道でもなかった」不思議な土地だった。

猿骨部落

飛行場前駅あと、と、サイクリングロード

飛行場あと

岡島部落への道

飛行場前駅

次に訪ねたのが、「飛行場前」国鉄駅。妻が「JRじゃなく国鉄だよ」といった。国鉄も遠い昔になってしまった。

本によるとここは、朝鮮人強制連行とタコ部屋により飛行場建設が行われ、終戦と同時に工事途中のまま放棄された場所である。82年頃、本多氏が訪問しレポートしている。 脱走して生きのびることができた在日韓国人沈さん(59歳)が『本当にこの世の地獄でした』と語っている。

今は、「天北線」も廃止され、サイクリングロードになっていたが、私たちは「飛行場前」駅の残骸を見つける事ができた。その場に立って、妻とタコ部屋について語り合った。

岡島部落

最後が枝幸町の岡島部落である。当時、本多さんは江藤さん宅のくさぶきの家に宿泊している。本を読んで牛と人間の同居で、トイレが牛と同じ生活に、ショックを受けた。そんなに古い話ではないのに。満州引上げ者の江藤さんとの苦労の語らいがつづられている。

私たちが訪れた岡島部落には、草ぶき屋根の家もなく、十勝の農家と比べると貧しいかも知れないが、それなりに安定した生活を見ることができた。本多氏のように訪問する力もないので、外見を見ただけだが。 緑のきれいな牧草地の片隅を借りて、ランチを作り、春の日差しを満喫した。

岡島部落らしき場所でランチ