梅崎春生(1915-1965)
大正4年2月15日ー昭和40年7月19日 51歳 (春秋院幻化転生愛恵居士)
静岡・富士霊園

昏迷しそうになる意識に鞭打ち、私は更に麦酒を口の中にそそぎ込んだ。かねてから私を悩ます、ともすれば頭をもたげようとするのを無意識のうちに踏みつぶし踏みつぶして来たあるものが、俄かにはっきりと頭の中で形を取って来るらしかった。私は、何の為に生きて来たのだろう。何の為に
私とは、何だろう。生れて三十年間、言わば私は、私というものを知ろうとして生きて来た。ある時は、目分を凡俗より高いものに自惚れて見たり、ある時は取るに足らぬものと卑しめてみたり、その間に起伏する悲喜を生活として来た。もはや眼前に追る死のぎりぎりの瞬間で、見栄も強がりも捨てた私が、どのような態度を取るか。私という個体の滅亡をたくらんで、鋼鉄の銃剣が私の身体に擬せられた瞬間、私は逃げるだろうか。這い伏して助命を乞うだろうか。あるいは一身の衿持を賭けて、戦うだろうか。それは、その瞬間にのみ、判ることであった。三十年の探究も、此の瞬間に明白になるであろう。私にとって、敵よりも、此の瞬間に近づくことがこわかった。
(桜 島)
梅崎春生の天命は51歳の夏に終わった。最後の作品となったのは「幻化」である。戦争末期に兵士として死と直面した土地を、二十年後に再訪する話であるが、主人公と同じようにそのころ彼もまた、神経に変調を来していたようであった。再度の吐血の後、昭和40年7月19日午後4時5分、肝硬変により東大病院で急逝。葬儀委員長は椎名麟三、戒名は武田泰淳がつけた。
彼の背には、重く、哀しく焼き付けられた戦争の狂気がのしかかっていたようだ。しかしその作品の中に、戦争に対する激烈な憤怒や、愚劣な死生観は感じられない。静観とした視線によってあたかも日々の営みの如く描かれている。桜島から遠く隔たった富士の懐、火山砂利の上に据えられた「梅崎春生之墓」の碑文字(武田泰淳の筆)に、朝日は肩越しに射し込み、墓地という特別な場所にも郷愁のような、微かな臭いが漂っていた。