豊島与志雄(1890-1955)
明治23年11月27日ー昭和30年6月18日 64歳 
多磨霊園


 母は悲しい眼付をして、なほじっと坐ってゐた。黄色っぽい薄ら明りがその全身を包んでゐた。けれど、今にも次第に暗くなってきさうだった。眼に見えるやうにじりじりと秋の日脚が傾いていった。冷々とした風が少し吹いて、さらさらと草の葉のそよぐ音がした。木和田五重五郎の位牌が、野中の十字架のやうに思はれた。雑草の中に一つぽつりと、灰白色の圓いものが見えた。野晒しの髑髏だった。その上を冷たい風が掠めていった。彼は堪らなく淋しい気持ちになって、我知らず口の中で繰返した。----野ざらしを心に風のしむ身かな。-----それをいくら止めようとしても、やはり機械的に繰返されるのだった。一生懸命に止めようと努力すると、気が遠くなって野原の真中に倒れた。胸がまるで空洞になって、風がさっさっと吹き過ぎた。自分の魂が髑髏のやうになって、胸の中に……野の中に轉ってゐた。
(野ざらし)

 「孤高の文士」豊島与志雄は昭和30年6月18日、東京・本郷団子坂の自宅で心筋梗塞のため亡くなった。彼の作品は生涯を通じて変わることなく素直に、自由に、愛を模索し、そして独りたちどまっているようにおもわれる。観念を主題にしたその難解な幻想的文学はニヒリストの様相をも呈している。夢と現実の狭間を行き来しながら、その人生は夢の中の孤独な風景を背負っているようでもあった。

 緑の多いこの墓地にあって、立ち止まったこの部分だけが暗く光を遮っているような錯覚を覚えた。砂利石の散らばった敷地にどんと淡く青みがかった自然石を置き、その座禅する達磨大師のような石姿の中央にただ○のみが彫られていた。故人の名は無い。右手前にある石柱に「豊島家之墓」とのみあった。