内藤湖南 ないとう・こなん(1866—1934)


 

本名=内藤虎次郎(ないとう・とらじろう)
慶応2年7月18日(新暦8月27日)—昭和9年6月26日 
享年67歳(文昭院静処湖南居士)
京都府京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町30 法然院(浄土宗)
秋田県鹿角市十和田毛馬内番屋平26 仁叟寺(曹洞宗)


 

東洋史学者。旧南部藩(秋田県)生。秋田師範学校(現・秋田大学)卒。『大阪朝日新聞』『万朝報』などの記者を経て、明治40年京都大学東洋史の講師、のち教授となる。中国史・日本史に多くの業績を残し、特に中国発展史の独創性と碩学ぶりから「内藤史学」と称された。著書に『中国近世史』『支那史学史』『燕山楚水』などがある。





 


 人の生を観るに、生より死に至る、欲する所あり、而して駆られて生を遂げ死に之くにあらざるなし、幼なるや其の欲する所、方さに其の未だ充たざるを足して其の長育を致すに在り、食の欲方さに盛んにして、嗜好も亦其の風味の美を求むるに遑あらず、而して専ら淡にして滋なるものを取る、既に長ずれば、其の味に於ける亦欲する所必要とする所に軼ぐ、嗜好する所、大抵必ずしも滋養に専らなる能はず、加之色欲の発達、漸くにして人を衰老に導く。社会も亦此に類する者あり、
 或いは法制の力によりて強盛を極む、而して極まれば則ち其の衰弱の支ふベからざるや、亦法制之を致す。古希臘の一国の如き是なり。……夫れ幼よりして壮、壮よりして老、一社会の終始此に一元 (発生から消滅に至る一周期)全成すれば、此社会の滅亡して而して代る者は必ず他の幼社会、老者の復た盛なり難きは、個人然りとす、社会も  觀然るが若し。

 

(贈渡米僧序)

 


 

 旧南部藩士の儒者の子として大政奉還の前年に陸奥国毛馬内村(現・秋田県鹿角市十和田毛馬内)で生を受けた内藤湖南は新聞記者として文筆の道を進んでいったが、次第に中国問題に関心を示すようになった。もともと儒学素養があり、「支那通」として頭角を現すと、明治40年、京都文科大学(現・京都大学)史学科東洋史学講座の講師、42年には教授となって京都学派の中心人物の一人としてシナ学の「学祖」となった湖南は、定年退職後、京都府相楽郡瓶原村(現・木津川市加茂町口畑)の山荘に隠棲した。昭和8年、建国間もない満州に「日満文化協会」設立のため渡満したが、翌9年1月に胃潰瘍を患い、5月には病状悪化、6月26日、かつて聖武天皇が都(恭仁京)を構えた瓶原の恭仁山荘で死去した。



 

 晩年に〈わしは儒家で仏家ではないから火葬はいかん、戒名もいらん〉と発言していたという内藤湖南は、没後、京都鹿ヶ谷の法然院墓地に埋葬され、郷里毛馬内の内藤家菩提寺・仁叟寺には遺髪を収めた遺髪塔が建てられた。俊寛僧都が密議をした山荘のあったことで知られる鹿ヶ谷には哲学の道や銀閣寺、若王神社、永観堂など静寂な周辺環境も相まって大岡昇平や小泉苳三、松岡譲、和辻哲郎、梅原猛などが住まいしていたが、東山連山の懐にある善気山法然院の墓地は陰緑の中に鎮まってあった。谷崎潤一郎、河上肇、九鬼周造、西田幾多郎、川田順など法然院文化人墓地の先駆となった湖南の墓「湖南内藤先生/夫人田口氏墓」は儒者のそれらしく夫人郁子の名にかえて実家の姓を用いている。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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文学散歩 :住まいの軌跡


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