河口慧海 かわぐち・えかい(1866—1945)


 

本名=河口定治郎(かわぐち・さだじろう)
慶応2年1月12日—昭和20年2月24日 
享年79歳(雪山道人河口慧海位) 
東京都港区南青山2丁目32–2 青山霊園1種ロ15号5側西1地区 


 
仏教学者。大阪府生。同志社英学校中退のち哲学館(現・東洋大学)外生終了。明治23年黄檗宗の五百羅漢寺で出家。仏教の原典研究を志し、鎖国状態のチベットに単身入国。多数の仏典を持ち帰り、仏教、チベット研究に貢献、帰国後『西蔵(チベット)旅行記』を新聞に発表。晩年は還俗して在家仏教徒として布教に努めた。ほかに『生死自在』『在家仏教』などがある。




 旧墓

 新墓


 

 菩提心を起こすには、精神の不滅なること及び正因正果の原理を固く信じて幾度か生じ幾度か死したることよりして世界一 切衆生に深き因縁あることを観じ、これらの衆生が現在及び将来に受ける艱難辛苦の無量無辺なることを知ってこれを救わんとの決心を以て立つのである。また我住する国土はこれを荘厳するに種々の徳行を以てするのである。然るに始めより菩提心を起こし国土を浄潔に荘厳すると云うことは出来難いことである。故に始めは万徳円満大慈大悲の仏陀世尊を一心不乱に信仰してその信心の力に依って父母の如き如来の慈懐に入るのである。その大慈悲の懐裡に住する時は云何なる事をも恐れない。これ完全に生死白在を獲得したものでないが何事の苦痛も怖れないから殆んど生死自在を得たのに近い境界にあるのである。信心に依って大悲の光明裡に住する者はその身は闇黒煩悩の凡夫たるに拘らず、その光輝に照され仏陀の光明を分に受けて遂に自分より道徳の光明を輝かすに至るのである。道徳光明の赫灼たる所これ即ち生死自在の安楽浄土である。


                                              
(生死自在)

 


 

 昭和15年、梵蔵の蔵書一切を寄贈する替わりに、『蔵和辞典』の編纂経費として十年間助成するという契約を結んだ東洋文庫(三菱の岩崎久弥が設立した東洋学専門の図書館・研究所)に精勤して編纂に励んでいたのだが、戦争も終わりに近い19年末の夜、文庫からの帰り道に運悪く道端に掘られた防空壕に落ちて大けがを負ってしまった。二週間ほどで癒えたあとも文庫に通い始めていたのだが、翌20年2月16日、いつものように昼食をとっていた最中に突然茶碗を落とした。脳溢血による左半身麻痺であった。しばらく療養していたのだが再起すること叶わず2月24日正午、死去した。チベットに行って死んで菩薩になろうとした慧海だったが、菩薩になることはできず生涯苦悩の連続であった。



 

 〈謹んで一切衆生に申上ぐ /生死の問題は至大にして/ 無常は刹那より速かなり/ 各々努めてさめ悟れ /謹んで油断怠慢するなかれ〉と一日二回、朝と夜に板木を打ち鳴らして唱える勤行は死ぬ直前まで続けられた。死をも覚悟してチベット行きを決行し、精進に精進を重ね、仏教界を敵に回し、激しく攻撃してきた慧海だったが、還暦を機に還俗を宣言した。〈仏教精神を以て、在家を生き抜くということが仏教の進む道である〉と「在家仏教」を提唱した河口慧海は没後、大正10年に慧海本人が建てた谷中天王寺の河口家之墓に葬られたのだが、昭和30年に青山霊園に改葬。経年劣化して黒ずんだ墓碑と向かい側に姪などによって昭和47年に新しくされた「雪山道人河口慧海霊」の二つの墓が建っている。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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