斎藤 賢(1867-1904)
慶応3年12月30日ー明治37年4月13日 36歳 (春暁院緑雨醒客居士)
東京・文京区向丘・大円寺
天下重宝の白紙へあたら墨を塗りて見て下されとハ生ある者の云はれた筈の義理でハないなり其れをのめのめと遣てのけるを今日の小説家と申すとかや香具師の謂ふ因果とハこの事三年先の鳥が啼いたハ大方これを笑ふたのでがなあるべし
されど熟く思へば小説家と申すハ極めて罪の淺い者なり期する所唯一言妙だよと云はれたいに在り云はれずバみづから云つて安んずる程の仕合せ之を片附けんこと三立目の奴が首を参るよりも易しつまりが太平の世の蚯蚓の子ほめたとてむほんが出るでもなくけなしたとて小刀一つ揮るでもなし御無用だよの五字に代ふるに妙だよの三字を以てせらるれバそれでいづれも大々満足得脱成佛疑ひ無し
(かくれんぼ-叙)
明治37年4月11日夕刻、肺結核の身を横たえる本所横網町の陋宅に友人の馬場孤蝶を呼び、預かっていた樋口一葉の日記の後日を頼み、自らの死亡広告の筆を執らせた。2日後の午前10時頃、家人をさけて一人ひっそりと逝った。翌日、「万朝報」に「僕、本月本日を以て目出度死去仕候間此段広告仕候也 四月十三日 緑雨斎藤賢」の死亡広告が掲載された。
「明治文壇の鬼才云々」と掲げられた木札は傾き、墨は薄れて全ては判読できない。祖父母、父母、次弟とともに合祀された灰色の墓碑に、幸田露伴の筆になる「斎藤氏之墓」を読む。江戸札所第23番金龍山大円寺の墓地にある墓は、戦時に直撃弾をうけ損傷したものが多いというが此の墓に傷はない。「正直正太夫」「緑雨醒客」の筆名で明治文壇に毒舌批評家として名を成した人の墓に彼岸の人影はなく、灰色の碑面にただ鈍く揺れる葉影だけが時を動かしていた。