織田作之助(1913-1947・大正2年-昭和22年)
昭和22年1月10日歿 35歳 (常楽院章誉真道居士) 大阪・天王寺区・楞厳寺




ペンを取ると、何の澁滞もなく瞬く間に五枚進み、他愛もなく調子に乗つてゐたが、それがふと悲しかつた。調子に乗つてゐるのは、自家薬籠中の人物を処女作以来の書き馴れたスタィルで書いてゐるからであらう。自身放浪的な境遇に育つて来た私は、処女作の昔より放浪のただ一色であらゆる作品を塗りつぶして来たが、思えば私にとつて人生とは流転であり、淀の水車のくりかへす如くくり返される哀しさを人間の相と見て、その相をくりかへしくへかえし書き続けて来た私もまた淀の水車の哀しさだつた。流れ流れて仮寝の宿に転がる姿を書く時だけが、私の文章の生き生きする瞬間であり、体系や思想を持たぬ自分の感受性を、唯一所に沈潜することによつて傷つくことから守らうとする走馬燈のやうな時の場所のめまぐるしい変化だけが、阿呆の一つ覚えの覘ひであつた。だから世相を書くといひながら、私はただ世相をだしにして横堀の放浪を書かうとしてゐたに過ぎない。横掘はただ私の感受性を借りたくぐつとなつて世相の舞台を放浪するのだ。なんだ昔の自分の小説と少しも違はないぢやないかと、私は情けなくなつた。

(世相)


坂口安吾・太宰治等とともにデカダンス文学の代表作家といわれた織田作之助は、戦後の混乱期22年1月10日最期の喀血のあと午後7時10分芝田村町東京病院で、「ロマンを発見した」の伝説的な一語を遺し途半ばにして逝った。志賀直哉的現代日本文学を否定し、「可能性の文学」の実践を叶えることなく斃れた。病躯を引きずり果敢に攻めまくった壮絶な死であった。その骨を拾った盟友太宰治もまた翌年6月情死した。


スタンダールに次いで師と仰ぐ井原西鶴の墓所に近いこの寺の「織田作之助墓」は、本堂軒下の遮光された空間に隣地高津高校(作之助母校)校舎の明るさに背を向けハレーションをおこして立っていた。とんがり帽子のような形をした自然石の墓石裏面には同郷の作家藤沢桓夫撰文による作之助の生涯が記されていたが墓石の大きさにまず驚いて「ちょっと違うな」と呟いてしまった。