野間 宏(1915-1991)
大正4年2月23日ー平成3年1月2日 75歳
京都市東山区・東大谷墓地

架空線の網の目をみつめている及川隆一の心の中を、ふっと、かすかな空気の振動のような、あるいは又張りつめた野戦の通信線がたちきれる時のような、言い知れぬ苦しみがとおりすぎる。それはふっと胸のほんの入り口のところをかすってどこかへ行ってしまう。と又、ふっと音をたててそれはとおりすぎる。及川隆一にはその自分の胸をかすって通りすぎるものが何であるか解らない。彼にはそれを自分の言葉にして言いあらわすことは出来はしない。生存の嫌悪?そうではない。死の恐怖?そうではない。人生の寂莫?そうではない。何か堪えがたいものがとおりすぎる。が、彼は自分でそれをどうするすべもないのである。と眼の前に拡げていた架空線の網の目が、突然その太い触手をぬらぬらと動かし始めた。ぬらぬらと、幾本も交りあったその針金の手を動かして、それが彼の方に向ってやってくる。いやだ、いやだ、いやだ、いやだと彼は自分に抵抗しながら体の深みで言った。と、彼の眼の前がはっと黒くなつたかと思うと、彼の身体の上にあの手榴弾の爆裂した瞬問の、ぐにゃりとした感覚、意識と体液とが混合したようなねばねばした瞬間がおそいかかってきた。そして架空線の網の目は、厩の後の闇の中で彼のくらい視界にうつし出されたあの自分の眼球の中の白血球の珠ず玉の網の目に変り………ぐにゃりとした内部感覚、空中へふき上げられる自己意識。
及川隆一は激しく顔を振って、ぬらぬらした自己の崩解感から自分をもぎはなし、大股で道を引きかえし始めた。
(崩解感覚)
「常に生と死が自分の横にある」と、文学者としての使命感に燃え、あるいは文学を超えて人権問題、環境問題などの多方面な運動に命を削った。平成2年、体調を崩し、入退院の後の年末、慈恵医大病院に再入院。癌は食道を蝕み、遂には全身を包んでいった。年明けの1月2日午後10時38分、不帰の客となり、意欲をのぞかせていた「地の翼」や「生々死々」も未完、狭山裁判批判も途切れてしまった。桑原武夫に重戦車と例えられもした作家野間宏。闘う作家がゆるゆると歩んだ道々には、人類に対する警句が累々と横たわる。
在家仏教祖師の子としてうまれ、「宗教」を身中の生命としてきた野間宏の墓は、晩年傾倒した親鸞上人の眠る東大谷祖廟に隣接する墓地にある。二万基以上の門信徒の墓にうずもれた小さな小さな墓が窮屈そうに建っている。「南无阿弥陀佛」と彫られた碑の左側面に野間宏と次男新時の没年月日がある。8月14日からはじまる万灯会、全国から献納された灯籠に灯が入れられ、東山の薄闇にゆらめく光の中、全身を奮い立たせて立ち上がる野間の姿を夢想して、しばらくの間、熱病に冒されたようにうずくまる京洛の街並みを眺めていた。