長塚 節(1879-1915)
明治12年4月3日ー大正4年2月8日 35歳 (顕節院秀嶽義文居士)
茨城県結城郡石下町国生・共同墓地


 烈しい西風が目に見えぬ大きな塊をごうつと打ちつけては又ごうつと打ちつけて皆痩こけた落葉木の林を一日苛め通した。木の枝は時々ひうひうと悲痛の響を立てゝ泣いた。短い冬の日はもう落ちかけて黄色な光を放射しつゝ目叩いた。さうして西風はどうかするとぱつたり止んで終つたかと思ふ程靜かになつた。泥を拗切つて投げたやうな雲が不規則に林の上に凝然とひつゝいて居て空はまだ騷がしいことを示して居る。それで時々は思ひ出したやうに木の枝がざわざわと鳴る。世間が俄に心ぼそくなつた。
 お品は復た天秤を卸した。お品は竹の短い天秤の先へ木の枝で拵へた小さな鍵の手をぶらさげてそれで手桶の柄を引つ懸けて居た。お品は百姓の隙間には村から豆腐を仕入れて出ては二三ヶ村を歩いて來るのが例である。手桶で持ち出すだけのことだから資本も要ない代には儲も薄いのであるが、それでも百姓ばかりして居るよりも日毎に目に見えた小遣錢が取れるのでもう暫くさうして居た。手桶一提の豆腐ではいつもの處をぐるりと廻れば屹度なくなつた。還りには豆腐の壞れで幾らか白くなつた水を棄てゝ天秤は輕くなるのである。お品は何時でも日のあるうちに夜なべに繩に綯ふ藁へ水を掛けて置いたり、落葉を攫つて見たりそこらこゝらと手を動かすことを止めなかつた。天性が丈夫なのでお品は仕事を苦しいと思つたことはなかつた。
( 土 )

 旅行家といっても良いほど多くの旅をした。足跡の及ばなかったのは北海道と北陸道、四国の太平洋岸。最後の旅は九州、行く末の定められた苦しく悲痛な旅だった。咽頭結核を発病してから4年がたっていた。絶唱「鍼の如く」に収められた「時雨れ来るけはひ遙かなり焚き棄てし落葉の灰はかたまりぬべし」、長塚節の一生涯、目前に迫った死を清冽、沈着に見据えた潔さがそこにはあったが大正4年2月8日午前10時、九州大学付属病院南隔離病棟六号室、「土の歌人」長塚節は逝ってしまった。

  九州福岡の地で果てた長塚節は翌日崇福寺で荼毘に付され、弟の養家先である東京小布施邸で通夜を行ったのち郷里に戻った。3月14日は郷家の葬儀、前日の雪が解けた泥濘を野辺送りの行列は黙々と国生の共同墓地に向かっている。ああ、その葬列も今は蜃気楼となって。支線の小駅からずいぶんと歩いてきた道のりのようやくにたどり着いた「土」のふるさと。竹の林に沿って、細道は墓丘に続く。昨日来の雪の原に朝日は照り映え、私の沓跡は二つ三つと真っ白な奥津城に黒々と刻まれた。古びれた「長塚節之墓」、矩形の石陰に供えられた静かなる菜の花一輪、「菜の花の乏しき見れば春はまだかそけく土にのこりてありけり」