国木田哲夫(1871-1908)
明治4年7月15日ー明治41年6月23日 38歳 (天真院独歩日哲居士) 
青山霊園


 「要するに僕は絶えず人生の問題に苦しむでゐながら又た自己将来の大望に壓せられて自分で苦しんでゐる不幸な男である。」
「そこで僕は今夜のやうな晩に獨り夜更て燈に向つてゐると此生の孤立を感じて堪へ難いほどの哀情を催ほして来る。その時僕の主我の角がぼきり折れて了つて、何んだか人懐かしくなつて来る。色々の古い事や友の上を考へだす。其時油然として僕の心に浮かむで束来るのは則ち此等の人々である。さうでない、此等の人々を見た時の周圍の光景の裡に立つ此等の人々である。我れと他と何の相違があるか、皆な是れ此生を天の一方地の一角に享けて悠々たる行路を辿り、相携へて無窮の天に帰る者ではないか、といふやうな感が心の底から起つて来て我知らず涙が頬をつたふことがある。其時ぱ實に我もなければ他もない、たゞ誰れも彼れも懐かしくつて忍ばれて来る。
 「僕は其時ほど心の平穏を感ずることはない、其時ほど自由を感ずることはない、其時ほど名利競争の俗念消えて總ての物に對する同情の念の深い時はない。」
(忘れえぬ人々)

 明治41年6月、茅ヶ崎南湖院には身を横たえた独歩がいた。「死とは自覚の滅する事ならずや。(中略)死に近づくに連れて人は生前の自覚を次第に薄らがす者なり。然る以上、死は即ち生存の自覚の停止ならずや。」前年末に自記した一節。病室にあって、なお野に憧れ、寂しさに涙して聞いた波音は、38歳の独歩の何心にか滲み入り、23日、遂には逝った。梅雨晴れた翌日、田舎家の軒下には野花で飾った棺があった。

 去ること90年、6月29日激しい雨脚と読経が響く青山原の墓穴に遺骨はおろされ、故人の著書、「武蔵野」「独歩吟」「独歩集」「運命」「涛声」の5巻を収めた陶器とともに埋葬された。一坪ばかりの塋域には、時を経て「独歩国木田哲夫之墓」がある。明るく光る石肌の前を、墓守の引くリヤカーが、がさがさと音を残して通り過ぎていく。
「吾は一個、人間なり」