今 東光(1898-1977・明治31年-昭和52年)
昭和52年9月19日歿79歳(大文穎心院大僧正東光春聴大和尚)東京・寛永寺第三霊園




古来、多くの文学者は「永遠の女性」を創り出すべく努力した。それ等の女性は何等かの意味で、それぞれの作家の理想を描いている。それなのにお吟女という女性は実在した人物である。如何に実在したかによって、お吟女という女性を通して、僕は僕の「永遠の女性」を追求した。彼女の肉体は準縄の埒を越えているかもしれないが、しかしながらその高貴な魂は神を求めていなかったとは誰も断言することが出来ないだろう。それなればこそ権力もそれを奪うことが出来なかったのだ。

秋から冬へかけて筆をとりはじめた。三十一年新年号に第一回が掲載された月、すなわち一月末に八十八歳の老母は僕の寺で死んだ。母と僕の愛僧激しい幕は下りた。さすがに僕は母のために平生は詠んだこともない歌を作ったものだ。

川浪の清き河内にみまかりし

たらちし母はよぺどすぺなし

講演やら放送やら、あわただしい朝夕を送りながら、河内国に在住したおかげで思いがけない資料などにも恵れ、一ケ年をどうやらお吟女と共に、彼女の運命をたどることが出来た。僕は最後にお吟女のために次の言葉を贈りたい。これは、つねに殺される者の叫びだからである。

『しっかりせよ。ジロラモ。世の人は永くお前を憶うだろう。死はつらい。しかしながら名誉は永久だ』(オルジァテイ)

(お吟さま・跋文)


一言で言うならば天衣無縫の生涯であった。反骨の不良少年時代、東大の講義を盗み聞きした青年時代、川端康成との生涯を通じての友情関係、菊池寛との決別、比叡山での仏門修行、大阪八尾天台院での河内生活、20数年ぶりの文壇復帰、大僧正として平泉中尊寺貫首、参議院選挙に立候補し当選等々、おおよそ並人生の数倍濃度の人生であった。昭和46年に発見された結腸がんは本人が手術をいやがり、ようやく2年後に摘出されたが、まもなく再発2年半後のこの日千葉・国立下志津病院で死去。



司馬遼太郎の今東光評に曰く「仏教によって覚者になったというよりも、天成、浮世へ遊びに来て、また還るというような覚悟が、なにげなく育つ体質を持っていたのではないか」

谷中の墓地を抜け寛永寺境内を横切り、上野中学校門前にある此の墓地の和尚の墓は、石庭風にしつらえた塋域に石塔と柴田錬三郎撰文墓誌が配してあった。強い陽射しに枯れそぼった供花が、墓前に遊んでいたのを花生に戻してみたが、一陣の風に舞ってころころと砕石に転がってしまった。