木山捷平(1904-1968・明治37年-昭和43年)
昭和43年8月23日歿 64歳 (寂光院寿蘊捷堂居士) 岡山県笠岡市山口木山家墓所
しかしいざ筆をとってみると、筆はなかなか進まなかった。「霰」という字が分らないで行きつまったり、煙草がきれて捜しに出たり、風邪をひいて寝たり、短い原稿なのに意外な難渋をきわめた。私は自分の不才に愛想をつかした。もう六年も畳替えをしない借家で盛切飯を食べながら、二十年前、「お前は自家で農科をやれ」といった父の言葉が、ひしひしと胸によみがえって来た。考えてみると、父がそういう言葉を言った年に、自分もぼつぼつ達しようとしているのであった。「親子二代はひどすぎる」
私はなんということなく、こんなことを独り言で呟いて、夜もろくろく睡れなかった。十年前、勘当状態のまま幽明境を異にした父のために、いつかは永井荷風氏に手紙を出して、岩渓裳川先生の墓地の在り処を尋ね、しみじみとした墓参がしてみたいと考えながら、長い間うっちやりになっていることが後悔された。
古言に、子は父のために隠す、というのがあるが、あんなうら恥ずかしい文学修業記を書いて、亡父の秘密まで世間にさらすより、父の旧師のお墓参りでもした方が、どんなに真実がこもっているか知れない、と私は悔恨で枕をぬらした。
(春 雨)
昭和43年5月、捷平は食道癌のため入院先の東京女子医大病院で「晩春」という詩を書いた。
尋ねて来たのに/主人は留守である。/主婦も留守である。/新緑の縁側に/茶碗が二つ置いてある。/---では失敬、/ ぼくは待ってゐるわけにはいかないのだ。
3ヶ月後の8月23日午後1時23分、捷平は還った。主人の居ない無門庵の縁側に-------。
村の入口に常夜燈が立っている。その辻から、かって井伏鱒二も訪ねたという、今は無人の生家が目の先に見える。土塀に沿って裏山に続く細道を登っていく。「自分が死んだ時自分の遺骨が、自分の家の祖先の墓に埋められることを、この世におけるたった一つの希望にしていた」捷平の墓は、この長尾山の竹藪のなか、細長く拓かれた墓所の一番奥にあった。妻ミサヲを合わせ葬った碑は、竹葉の上の方から真っ直ぐに降りてくる澄んだ光を、心おきなく受け止めていた。