梶田尊子(1876-1900)
明治9年3月16日ー明治33年11月5日 24歳 (孤月院浄光妙観大姉)
染井霊園


 それより人形町通りを、一人の狂女徘徊ひぬ。いと悲しげに聲を絞りて、神様、佛様、聽えませぬ。何故あのお可愛しいおl浮ッまして上げて下さりませぬ。お嬢様は立派に奥様とお成り遊ばす筈の所を毛唐人の爲に清様に捨てられて気になり、死ぬ死ぬと仰有っては、日増しに重くなってお在成されます。あゝお可愛想な。此儘に捨てゝ措いては、終には屹度お逝去遊ばしませう。おゝお嬢様、お泣き遊ばすな。乳母やが今に毛唐人を殺して、清様と御夫婦にお成りなさるやうに爲てお進げ申しますから、お気を強く持って、少しの間死なずにお待ち遊ばせ。それ其方へお出なすっては、大川で水が一杯にあって怖う御座んすに、何處迄も私の袖の中へ這入って居て下されまし。あれ又お嬢様が井戸端へお出なさる。誰か抱留めてお呉れなされ。眞箇に毛唐人さへ居なければ、何も彼も都合よく行きますに、えゝ口惜しい口惜しい、と狂ひ廻る姿の憐れや、袖は千切れて肌もあらはに、きょろきょろと四方をみまわしつ、巡行の巡査の袖に縋りて、毛唐人を殺して、お嬢様をお助け成されて下されまし。えゝ聽えませぬ聽えませぬ、と聲を舉げてぞ打泣くなる。されど巡査は振拂ひて過ぎぬ。見物人ハ面白げに弄りて笑ひぬ。あ狂涙ぐき
(乳 母)

 画家梶田半古との結婚生活は病がちで、一男を出産後、健康はすぐれず、2ヶ年を経た明治33年11月5日腸結核で死去。明治27年、18歳で師尾崎紅葉から授かった「薄氷」の号で処女作「三人やもめ」を「近江新報」に掲載以来、5、6年の期間での作家活動ではあったが寡作にして、20篇前後の作品のみが残された。

 薄氷は葬儀の後、谷中天王寺墓地に葬られたが、明治44年に染井のこの地に合葬された。残された一子博兄も疫痢のため5歳で死亡、母の傍らで眠っている。泉鏡花は「薄紅梅」では薄氷を主人公として描いているが、光彩を避けるように建つ「梶田家之墓」にある薄命な閨秀作家の胸の内には、かって噂された鏡花とのロマンスも消え失せてしまったであろうか。