葛西善蔵(1887-1928)
明治20年1月16日ー昭和3年7月23日 42歳  (藝術院善巧酒仙居士) 
鎌倉・建長寺回春院



 ぽつねんと机の前に坐り、あれやこれやと考へて、思ひふさぐ時、目分を慰めてくれ、思ひを引立ててくれるものは、ザラな顔見知合ひの人間よりか、窓の外の樹木---殊にこのごろの椎の木の日を浴び、光りに戯れてゐるやうな若葉ほど、自分の胸に安らかさとカを与へてくれるものはない。鎌倉行き、売る、売り物、三題話のやうな各々の生活---土地を売つた以上は郷里の妻子のところに帰るほかない。人間墳墓の地を忘れてはならない。椎の若葉に光りあれ、僕は何処に光りと熱とを求めてさまよふべきなんだらうか。我輩の葉は最早朽ちかけてゐるのだが、親愛なる椎の若葉よ、君の光りの幾部分かを僕に恵め。
(椎の若葉)

 「人生苦のあらゆる悲惨」とフレーズされた「葛西善蔵全集」の広告が新聞に掲載されたのは昭和3年7月23日のことであった。
 
俺は忍路(おしょろ)高嶋を唄はう。忍路高嶋は俺の少年の夢だ。俺は少年の夢を抱いて忍路高嶋を放浪したのだ。俺の胸は火であつた。けれども俺は凍え死なうとした。がもし俺があの当時に死んでゐて呉れたら……あゝ少年の夢よ!(「悪魔」)
 破滅に自己を突進させていった放浪作家の「少年の夢」は、その日夜半、世田谷・三宿の寓居で、多年の肺結核により燃え尽きた。

 鎌倉五山の第一である臨済宗建長寺の塔頭・宝珠院に居していたのは、関東大震災によって寺が崩壊するまでの4年ほどの間であったが、半僧坊にむかって疎水沿いの小径を曲がった先にある同じ塔頭のひとつ、回春院の墓地に、郷里・弘前の徳増寺の墓から分骨されて建てられた「葛西善蔵之墓」はあった。何よりもまず目についたのは「藝術院善巧酒仙居士」の文字であった。何とも苛烈な一種のユーモアに溢れた戒名ではないか。
「生活の破産、人間の破産、そこから僕の芸術生活が始まる」