石田哲大(1913-1969)
大正2年3月18日ー昭和44年11月21日 56歳 (風鶴院波郷居士) 
東京・調布・深大寺墓地



霜の墓抱き起されしとき見たり
雪はしづかにゆたかにはやし屍室
遠く病めは銀河は長し清瀬村
えごの花一切放下なし得るや              (惜命)
泉への道後れゆく安けさよ              (春嵐)
墓の間に彼岸の猫のやつれけり           (江東歳時記)
生き得たりいくたびも降る春の雪           (鶴)
呼吸は吐くことが大事や水仙花           (酒中花)

 「水仙花いくたび入院することよ」-----兵役中に発した胸膜炎は強固な病巣となって波郷を蝕み、戦後は昭和23年府下・清瀬国立東京療養所での数年間の療養生活をはじめ、幾たびとなく入退院を繰り返す生活であったが、それらの「死」との対決は多くの秀作を生み出した。「俳句は文学ではない」という波郷の俳句観は「俳句」を「文学」に位置づけようとする強い決意の表れでもあったと思う。人間はすべての執着を放下することが出来るのだろうかという不安を追いながら、肺結核のため昭和44年11月21日午前8時30分清瀬・東京病院で56歳の生涯を終えた。

 ホトトギス派水原秋桜子の弟子であり、人生探求派の俳人として加藤楸邨、中村草田男等と競い合ってきた波郷の墓があった。烏が2、3羽舞っている狭い空間の光の下に花生けに立つ水仙花の瑞々しい白さとは対照的に、黒々と沈んだ筆刻の「石田波郷」の墓があった。深大寺西はずれ、茶屋沿いの坂道を上った先にあるその塋域の切石に腰掛けて、墓横に植えられた椿の花をしばらく眺めていたかった。

「虚子翁は椿を愛し戒名に椿の字が入っているが山桜に限った。水原先生は一重椿がお好み、私は何でもよい、椿であれば何でもよい