石橋助三郎(1867-1927・慶応3年-昭和2年)
昭和2年1月28日歿 59歳 (無盡院雨香文山居士) 谷中霊園内天王寺墓地
其内に此演習も全く終局を告げ、私も群集に混ツて出口まで來て、其処に侍たせておいた車夫を探す内、後の方から突然私の姓名を呼ぶ者があるから振向くと、兼て知り合ひの或貴女で、其脇に手を連ねて立ツて居たのは彼婦人であツた。其貴女は、○○さんと高く私の名を呼んで此間は失禮、途中で……車の上でツイ御挨拶もいたしませんで、私ハかう続けさまに云はれて、始めて此十日ばかり以前、途中で此貴女に行遇ツた事を思ひ起して首肯くのみ、此貴女がよく私に遇ツた事を忘れなかツた、中々交際には長けてゐる事を覺ツた。其内にも彼帰人は只鳥渡目禮したばかり、隻語を発しません。私は又今夜招待された禮を彼婦人に云うはうと思はないでもなかツたが、ツイ其時はどういふものか寸云ひう出し切れなかツた。否云ひ出す場合を得なかツた。只室内の燈光が遠く此處まで窓越しに薄く彼婦人の半面を照らして居た。これは笆垣に寄りかゝツた萩の花、彼れは花壇轤ォ誇ツた牡丹花、何れを愛し何れを好む?彼婦人は此貴女に對して、忌一層私の心の中には床しい愛らしさといふ感想を浮ばしめた。歸途私が公園の欝葱たる樹木闇を行く時、私の乗ツて居た車は、果して如何なる夢を運むだらう?
(わが戀)

思案の号は、父祖の郷里長崎の思案橋に因む。晩年は糖尿病を患い、禁酒禁煙を通したが、昭和2年、年明けから寒さ続きで糖尿病が悪化、28日午前5時、脳溢血のため死去。辞世の句に「極楽か地獄か我れは知らねどもなるべく来るなこんなところへ」とある。

硯友社創立の三人のうち、紅葉は青山霊園に、美妙は染井霊園にある。思案は谷中霊園内天王寺墓地と解っているだけで、この広い霊園の一つ一つの墓を訪ねるわけにもいかない。この場は谷中天王寺門前の花屋の娘さんに案内を請う。参道ともいえぬ入り組んだ筋の先に思案と妻浪子の法名を刻んだ墓石が建っていた。雑草さえもない殺風景な奥津城、土埃の舞う庭に、私の影が細長く横たわっている。