伊良子暉造(1877-1946)
明治10年10月4日ー昭和21年1月10日 68歳  (雲乗院諦翁観山居士)
三重県度会郡大紀町打見・打見墓地

蓆戸に
秋風吹いて
河添の旅籠屋さびし
哀れなる旅の男は
夕暮の空を眺めて
いと低く歌ひはじめぬ
亡母は
處女と成りて
白き額月に現はれ
亡父は
童子と成りて
圓き肩銀河を渡る
柳洩る
夜の河白く
河越えて煙の小野に
かすかなる笛の音ありて
旅人の胸に觸れたり
故郷の
谷間の歌は
續きつゝ斷えつゝ哀し
大空の返響の音と
地の底のうめきの声と
交はりて調は深し
旅人に
母はやどりぬ
若人に
父は降れり
小野の笛煙の中に
かすかなる節は残れり
旅人は
歌ひ續けぬ
嬰子の昔にかへり
微笑みて歌ひつゝあり
   
(漂泊)

 昭和21年1月10日、戸板に乗せられた清白が、疎開先の三重県度会郡七保村櫃井原の畦道を村人たちに運ばれていく。大台ヶ原山の山間部、東西にわずかばかり細長く切り開かれた空から舞い降りてきた小雪が、急患の往診途上で脳溢血のため倒れた清白の頬のうえで溶けていくが、遠い詩人が目覚めることはついになかった。明治39年に刊行された処女詩集「孔雀船」、この一巻をもって伊良子清白は立木を裂くように詩の世界と決別したのだが、その疑問に納得する明確な答えは永遠に冬空の彼方へと去ってしまった。

 詩を離れ、医師として鳥取、大分、台湾、京都など十数年の漂泊の果て、ようやくに辿り着いた三重県志摩郡鳥羽町小浜。終戦の直前まで、その小さな漁村の診療所が23年に及ぶ清白の安息の地であったが、漂泊の詩人に与えられた永遠の地は山間にわずかばかり拓けた丘の上に位置する小さな墓地であった。降り来たりし無人駅は遠くに霞み、大橋も七保の診療所も夕なずむ村落の添景となって、茶畑に設えられた霜除けの風車はいやいや回りはじめている。土葬のうえに村人が山から運んできた石が据え置かれた墓も昭和32年に建て替えられ、墓地の奥隅、村人の墓群れと少し離れた「伊良子家之墓」、やがて「月光の語るらく」青年の日の純潔な白い月に照らされた詩人の夜が深々とやって来るのだ。