井上 靖(1907-1991)
明治40年5月6日ー平成3年1月29日 83歳 (峯雲院文華法徳日靖居士)
静岡県天城湯ヶ島町熊野山共同墓地

「魚津恭太君はなぜ遭難したか? それは彼が彼自身でメモに記している。僕は先刻電話で聞いただけで、それを間違いなく報告できぬので、いまはお伝えすることを差し控えるが、日ならず、諸君もそれを読むことだろう。
僕のいま言おうとしていることはそれとは少し違う。魚津君はなぜ死んだか? それははっきりしている。彼が勇敢な登山家だったからだ。勇敢な登山家という奴は、極言すればみんな死ぬと、僕は考える。死んで当り前じゃないか。最も死ぬ確率の多い場所へ身を挺するのだから、これは死ななかったらむしろ不思議である。
魚津君はこんどたとえ無事だったとしても、彼が現在持っている勇敢さを失わない限り、必ずいつかは死んだことだろう。死が充満している場所へ、自然が人間を拒否している場所へ、技術と意志を武器にして闘いを跳む。それは確かに人間が人間の可能性を験す立派な仕事だ。往古から人類は常にこのようにして自然を征服して来た。科学も文化もこのようにして進歩して来た。人類の幸福はこのようにして獲得されて来た。その意味では登山は立派なことである。しかし、その仕事は常に死と裏腹なのだ。----魚津恭太君が会社員になりきっていたら、たとえ山へ行っても死なないですんだろう。山を愛し、山を楽しみ、冒険は避けたろう。ところか残念なことに、彼は新東亜商事から月給をもらって生きていたくせに、会社員ではなくて、まだ登山家だった。彼は山を愛し、山を楽しむために、山へ行ったのではない。山を征服しに、あるいは自分という人間のもつ何ものかを験すために、一人の登山家として山へ行ったのだ」
(氷壁)
43歳からの遅いスタートながら、大衆文学と純文学、双方の読者から受け入れられた「国民文学者」であった井上靖。平成3年1月16日、「すばる」編集部に届けられた最後の詩がある。「一日、端座して、/顔を庭に向けている。/樹木も、空も、雲も、風も、鳥も、/みな生きている。/静かに生きている。/陽の光りも、遠くの自動車の音も、/みな生きている。/生きている森羅万象の中、/書斎の一隅に坐って、/私も亦、生きている。」―――2週間後の29日、国立ガンセンターに横たわる作家の深層に滔々と流れる美意識が二度と甦ることはなかった。
中伊豆・修善寺から天城峠、下田に通じる国道の見過ごしてしまうようなあやふやな辻角、分け入る急坂の山道を「夕暮れになるとカラスが襲ってくるので気をつけてくださいね」などと脅かされながら登っていく。鬱蒼とした竹林は心細さが一層増して、歩みが知らず知らずに速くなっている。突然視野が開けると、黄昏ゆく秋が天城の真天空に爽と映って、秋草の蔭からは虫の音の合唱が聞こえてきた。頂上は古い共同墓地。生前に町から寄贈された塋域、小公園ほどの広さに野芝が敷かれ、梅、蜜柑の木なども植え込まれている。自筆「井上靖/ふみ」墓、「ふみ」には朱が入っている。背後に富士、正面には天城、この地に育った作家は今眠る。隣地に氏の記した戦友慰霊碑があった。「魂魄飛びて/ここ美しき/故里へ歸る」