井伏満寿二(1898-1993)
明治31年2月15日ー平成5年7月10日 95歳 (照観院文寿日慧大居士)
東京都港区北青山・持法寺

誰しも自分自身をあまり愚かな言葉で譬えてみることは好まないであろう。ただ不幸にその心をかきむしられる者のみが、自分自身はブリキの切屑だなどと考えてみる。
たしかに彼等は深くふところ手をして物思いに耽ったり、手ににじんだ汗をチョッキの胴で拭ったりして、彼等ほど各々好みのままの恰好をしがちなものはないのである。
山椒魚は閉じた目蓋を開こうとしなかった。何となれば、彼には目蓋を開いたり閉じたりする自由と、その可能とが与えられていただけであったからなのだ。
その結果、彼の目蓋のなかでは、いかに合点のゆかないことが生じたではなかったか!目を開じるという単なる形式が、巨大な暗やみを決定してみせたのである。その暗やみは際限もなく拡がった深淵であった。誰しもこの深淵の深さや広さを言いあてることはできないであろう。
-----どうか諸君に再びお願いがある。山椒魚がかかる常識に没頭することを軽蔑しないでいただきたい。牢獄の見張人といえども、よほど気難しい時でなくては、終身懲役の囚人が徒らに歎息をもらしたからといって叱りつけはしない。 「ああ、寒いほど独りぼっちだ!」
注意深い心の持主であるならば、山椒魚のすすり泣きの声が岩屋の外にもれているのを聞きのがしはしなかったであろう。
(山椒魚)
「井伏さんの通ったあとには草も生えない」と、武田泰淳に云われたほど、その描写力が生み出す独特の味わいは、表現された文字と文字のより深いところに、密やかな感動を呼び起こすように配してあった。旅の名人でもあった井伏鱒二。昭和2年から70年近く住まった荻窪の自宅に程近い東京衛生病院で肺炎のため亡くなった。平成5年7月10日午前11時40分、95年の長い旅の終わりであった。
表通りには青山の華やいだ喧噪があった。群から離れた赤蜻蛉がゆらゆらと舞っている、この寺の本堂裏にある墓地隅に「井伏家之墓」はある。昭和63年に井伏自身が建てたこの墓と自署刻の碑が並び、墓前には彼岸に供されたかすみ草と菊の花が、秋のひとときを静かに見送っていた。
「花にあらしの たとへもあるぞ さよならだけが 人生だ」