本名不明 (1914-1937)
大正3年9月22日ー昭和12年12月5日 24歳 
東京・国立全生園・全生者之墓


 「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。僕の言ふこと、解つてくれますか、尾田さん。あの人達の『人間』はもう死んで亡びてしまつたんです。ただ、生命だけが、ぴくぴくと生きてゐるのです。なんといふ根強さでせう。誰でも癩になつた刹那に、その人の人間は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。けれど、尾田さん、僕等は不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復るのです。復活、さう復活です。ぴくぴくと生きてゐる生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでゐるのです。死んでゐますとも、あなたは人間ぢやあないんです。あなたの苦悩や絶望、それが何処から来るか、考へて見て下さい。一たび死んだ過去の人間を捜し求めてゐるからではないでせうか。」 
(いのちの初夜)

 昭和12年12月5日午前5時35分、彼は腸結核で死んだ。皮肉なことであるが、「癩」は彼に苦悩と絶望をもって文学的才能を昇華させたが、死因としては廻り込んでいった。その死は夭折そのものであったが、24年の人生の僅か数年に費やしたエネルギーは死後、数万倍にもなって我々の胸に突進してくる。

 数十棟の病舎が建ち並び、柊垣で囲まれたこの集落を、ゆっくりゆっくりと振り返っていく。迷い込んだ小径のあたりに、小さな宗教施設が固まって在り、真言宗、真宗、日蓮宗、新旧の基督教会が、それぞれ向き合って建っていた。神父に尋ねた納骨堂は、園内欅並木の大通りをつきぬけ、彼岸花の小株を傍らに、「全生者之墓」と刻まれた石柱の先にひっそりとしてあった。遺骨は父が持ち帰り徳島の郷家の墓域に埋葬されたというが、死後も故郷に骨を埋めることの出来なかった数千名の諸霊とともに、その病によって実家も本名も墓所のありかも不明とされた民雄の霊も鎮まって在るのだろうか。