堀田善衛(1918-1998)
大正7年7月17日ー平成10年9月5日 80歳
北鎌倉・東慶寺

岐路における選択の片方は、つねに死である。如何なる場合にも、人は生を選びえなければならぬ筈である。木垣には、一九五〇年の七月某日、喫茶店の椅子にぐったり腰を落しているのは、木垣幸二という特定の人物ではなくて、どこの誰でもいい任意の人物のように思いなされた。人は選ぶことによつて数学の単位のような任意の存在から、意味をもった特定の存在になるのである。彼の周囲では、選択は畳み込み追い込むように行われていた。新聞も経済も戦争の方に張り込み、輿論調査と称するものによれば、国民の大部分も決定をしたことになっている、たとえそれがかりそめの恐怖にもとづくものであろうとも。木垣は自分の手を凝っと見詰めた。彼の手も汚れているのだ。そしてその汚れこそが真に彼自身にほかならぬのだ。しかしその汚れを正当化し、口実をみつけるために選ぶこともまた、己れを裏切ることにほかならない。彼は再び、放出のコーヒーやチーズやバターを行商してあるく、近所に住む追放された党員のKを思い出し、また先夜の特需景気に酔った労働者を思い出した。絶対に手を清くする純粋の道徳----そんなものは存在しない。だとすれば、あの労働者の赭ら顔こそは健康なものであって、椅子の上に〈死んでいる〉木垣こそは、実に本当に死んでいるのではないか。
(広場の孤独)
「近代小説というものは、私の考えでは、あらゆるものを相手にしていいけれども、とにかく『永遠』というやつだけは、直接相手にしないという約束の上に成立しているものだ」と書いた作家がいた。56年にインドを訪れて以来、世界人・国際人であり続けた彼も、晩年は逗子の高台の家で隠者のように暮していたそうだが、平成10年9月5日午前10時7分、横浜市内の病院で脳梗塞に逝った堀田善衛の鋭く強靱な詩的精神はまだまだ必要だったと惜しむ。
大晦日の鎌倉詣では、十数年来の恒例行事となった。一年で一番鎌倉らしい日だと密かに思っているが、ここ北鎌倉の東慶寺にも冴え冴えとした気配が満ちて、清爽な気分になる。細長い寺領の奥まった谷間、俗塵を制するような墓域には数多くの叡智が眠っている。地形は緩やかに迫り上がって、深い。右手奥域、入り口石柱に「堀田」、裏側に善衛と夫人の没年月日、享年が記されてある。堀田家の墓は白々とした五輪塔。何の標刻もない。ここに佇むと墓域全体が見渡せ、西洋庭園を思わせる整然と区画された生け垣の間から、苔生した宝塔が清々しい空を覗いている。