星野立子(1903-1984)
明治36年11月15日ー昭和59年3月3日 80歳 (紫雲院玉藻妙立大姉) 
北鎌倉・寿福寺
 


大仏の冬日は山に移りけり

昃れば春水の心あともどり

美しき緑走れり夏料理

下萌えぬ人間それに従ひぬ

朴の葉の落ちをり朴の木はいづこ

しんしんと寒さがたのし歩みゆく

寒しとはこの世のことよ墓拝む

梅白くまことに白く新しく

この後は八手の花も愛で生きん

春寒し赤鉛筆は六角形

 父虚子の提唱した花鳥諷詠、客観写生の句を基としながら、自然やなにげない日常の生活を女性らしい細やかな感性で発展させた立子は、昭和45年、脳血栓で倒れ、右半身不随、言語障害に悩まされながらもなお、女流俳人の第一人者として歩み続けた。昭和27年、40代最期の年の句「雛飾りつつふと命惜しきかな」、華やぐ日にふと感じた不安、惑い、無常観、昭和59年雛祭の日に亡くなった立子の思いが髣髴とする。

  サクサクと土塊は沓形を刻んでいく。昨夜来の強風で落下したのだろうか、瑞々しい黄肌の柚が5、6個転がっている。北鎌倉、今日の朝陽は硬く鈍い。やぐらに座する虚子の墓と永遠の対話を楽しむかのように向き合っている「星野家之墓」は陽を背にして、くっきりとした光の稜線を映している。ゆったりと広がった碑面は暗がり、供え花が宙に浮き上がって一層鮮やかに見える。立子の誕生に際し「生レタ子ハ女ノ子。名ハ立子。親父ガ三十ニシテ而シテ立ツ子トイフ洒落也」と虚子は友人に書き送った。慈しみ、思慕した父娘は今、永遠の時を共有する。

 「父が附けし わが名立子や月を仰ぐ」