
本多秋五(1908-2001)
明治41年9月22日ー平成13年1月13日 92歳
愛知県豊田市花本町・光明寺

戦後文学の時代はすでに去った。しかし、われわれはまだその延長と余波のなかにいる。流れのなかにいるものに、流れの其の姿は見えない。ここ数年来、戦後文学に対する否定的見解の波が高まってきている。しかし、それはまだ戦後文学を没し去るにはいたっていない。この波がさらに高まって、一旦戦後文学が没し去られて、さらにその波も引いたあとになってはじめて、われわれは戦後文学のほほ客観的な姿を眺めることができるだろう。
現在われわれがいいうること、そして私がいいたいと思うことは、戦後文学者よ、初心を忘れるな、ということである。批評家よ、戦後文学をその最低の鞍部で越えるな、それは誰の得にもならないだろう、ということである。そしてまた、若い世代の人々よ、出来うべくんば戦後文学の精神を精神とせよ、たとえそれが戦後文学の徹底的否定になろうとも、ということである。
(物語戦後文学史)
平野謙、藤枝静男、そして本多秋五は昭和初年の旧制八高以来の終生の友であった。ともに切磋琢磨した文学人生であったが、昭和53年に平野が先に逝き、平成5年に藤枝が後を追った。ひとり本多秋五のみが孤塁を守り、戦後文学の拠点「近代文学」同人、最後の一人でもあった。晩年は未明まで読書をして入浴後に就寝というのが毎日の習慣であったというが、平成13年1月13日朝、脳出血のため浴室で倒れているのが発見された。戦後以来百五十九冊目のノートの最後には「夜、空が買ってきてくれたので加藤周一著『私にとっての20世紀』をのぞいた」と書かれてあった。
豊田市花本の生家菩提寺、次兄静雄や秋五も寄進したという光明寺の山門をくぐると、おりしも庫裡横で何かの普請をしているらしく数人の職人たちが休憩の烟をふかしていた。邪魔をしてはとそそくさ本堂裏の墓地に回ったのだが、あまりにも本多姓の墓が多くて難儀この上なく、先程お茶の世話をされていた奥方に案内を請う。何の手入れもしておらずお恥ずかしいのですがと言いながら案内された畑地のような広い墓所は夏草の為すがまま。秋五存命のかなり以前から用意されていたという墓所、正面にある両親の墓や左右の兄弟の墓、それぞれ野にある石仏の如く。「本多秋五/治子之墓」、丸っこい石がポンと、草むらから「僕はそうおもわんがな」と、ゆったりとした声が聞こえてきそうな。
