本居雷章(1909-1967)
明治42年8月28日ー昭和42年8月7日 58歳  
東京・谷中霊園

 我が友の蝉が啼いてゐる。蝉は、どこででも啼いてゐる。耳を澄すと、その声は、しかし、あちらからこちらへ、こちらからあちらへ、しづこころなく啼き移るやうだ。――あの木にも、この木にも、やはり長くは居つかないのか、啼き移るその声は、見知らぬ群集のなかをさまよふやうに、一声歇んで一声起る、絶え間なく啼き継ぎながら、次々に絶え入る。その声のなかに、昔の友よ! 君の声を尋ねて、私は、はぐれる。もはや聴えない、あんなに近く聴えた声が、もはや私には聴えない。――劇しく啼きしきる蝉の声に、耳を藉しながら、私は古い椅子に腰を下ろしてゐる。私の眼は大きく見開きながら、在らぬ方をさまよふやうだ。蝉が啼いてゐる。蝉は確かに啼いてゐる。蝉はどこででも啼いてゐる。空はこのとき、底の知れない暑熱を胎み、色濃く、藍に干上る。別の世界のやうに、見知らぬ世界のやうに。
(蝉)

 昭和42年、山梨県清里町で静養中の菱山修三は倒れた。見知らぬ世界から聞こえてくる蝉の声をききながら。8月7日、脳溢血で死んだ詩人の享年は58。若死にかそうではないのか。自我の痛みを、静けさを、あやうさを真摯に投げつけた詩人の領域は深く不自由なのだが、「 私は遅刻する。世の中の鐘がなってしまったあとで、私は到着する。私は既に負傷している。__ 」、昭和6年、冒頭詩「夜明け」を収めた処女詩集「懸崖」を携えて現れた22歳の青年にとっては、その詩が象徴するような不透明で不安定な時代であったけれども詩壇にとっては早熟な輝かしい新星だったのだ。

 この領域を透明な真空の膜が包み込んでいるように、風も匂いも、小鳥の声さえも寄せ付けないのはどうしたことだろう。ただ無機質に乾燥し、終わった冬の寂しげな残光だけが少しづつ降りおりてきて、弱々しい葉影を碑に映している。「赤い靴」や「七つの子」などを作曲した本居長世の三女若葉と結婚した菱山修三の「本居家之墓」、背後には馬場孤蝶・辰猪兄弟の眠る塋域がみえる。その鋭い切っ先をもった碑の先端が一瞬光ったと思った刹那、傍らの木の葉がさわっと揺れだし、踏み入った束の間の心細さはようやくに霧散したようだ。「不安」を作品の主要なテーマとした詩人の痛々しい呻きが聞こえてくるような気配もなかったのだが。