阿部正雄(1902-1957)
明治35年4月6日ー昭和32年10月6日 55歳 
鎌倉・材木座霊園




 太郎は保護室といってゐる薄暗い小部屋の板敷に坐って、巣箱の穴のやうな小さな窓から空を見あげながら、サイパンの最後の日のことを、うつらうつらと思ひうかべてゐた。(中略)
 「そろそろ水汲みに行く時間だ」
 太郎は勇み立つ。洞窟に入るやうになってから、一日ぢゅう母のそばにゐて、あれこれと奉仕できるのが、うれしくてたまらない。太郎は遠くから美しい母の横顔をながめながら、はやくいひつけてくれないかと、緊張して待ってゐる。
 「太郎さん、水を汲んでいらっしゃい」その声を聞くと、かたじけなくて、身体が震へだす。母の命令ならどんなことだってやる。磯の湧き水は、けはしい崖の斜面を百尺も降りたところにあって、空の水筒を運んで行くだけでも、クラクラと眼が眩む。崖の上に敵がゐれば、容赦なく狙撃ちをされるのだが、危険だとも恐しいとも思ったことがない。水を詰めた水筒を母の前に捧げると、どんな苦労もいっぺんに報いられたやうな、深い満足を感じる。
 あれは幾歳のときのことだったらう。ある朝、母の顔を見て、この世に、こんな美しいひとがゐるものだらうかと考へた、その瞬間から、手も、足も出ないやうになった。このひとに愛されたい、好かれたい、嫌われたくないと、おどおどしながら母の顔色をうかがふやうになった……
(母子像)

 久生十蘭の生を繋げるのは、亀井勝一郎・長谷川海太郎(のちに谷譲次・牧逸馬・林不忘と三つの筆名を使い分けモンスターと呼ばれた作家)らを生んだモダンな港町函館であった。3年余りを数えたその後のフランス留学も、あるいは怪しくも眩暈を撒き散らしたような作品群の繋がる先である。昭和32年6月、食道癌の疑いで癌研究所に入院、楽しみにしていたパリ再訪を果たせぬまま、10月6日午後1時40分、鎌倉・材木座の自宅で逝く。

 頂上に立つと、眩しさに手をかざした私の前には、落日に彩られ黄金色に輝く湘南の海が拡がる。海に背を向けると、山頂を切り取ったこの小さな霊園の墓地が展望でき、管理事務所の近くにある小さな廟が見える。「わたしはよみがえりであり命である。わたしを信じる者はたとい死んでも生きる」と刻された文字の下に祀られた人々の名がある。「コルネリオ 阿部正雄」、ピンクのカーネーションやスイートピーが飾られた「聖公会」墓地、久生十蘭は此処に眠る。