広津和郎(1891-1968)
明治24年12月5日ー昭和43年9月21日 76歳 
谷中霊園


 結局、一口に云へば、澤山の藝術の種類の中で、散文藝術は、直ぐ人生の隣りにゐるものである。右隣りには、詩、美術、音楽といふやうに、いろいろの藝術が並んでゐるが、左隣りは直ぐ人生である。−−そして人生の直ぐ隣りと云ふ事が、認識不足の美學者などに云はせると、それ故散文藝術は藝術として最も不純なものであるやうに解釋するが、併し人生と直ぐ隣り合せだといふところに、散文藝術の一番純粹の特色があるのであつで、それは不純でも何でもない、さういふ種類のものであり、それ以外のものでないと云ふ純粹さを持つてゐるものなのである。音楽が一番純梓な藝術だといふ説などは、随分世に流布されてゐるが、これも藝術にいろいろの種類があり、その種類にそれぞれその性質があるといふ事を考へた事のない、認識不足の美學者のたはごとである。
 
併しかうしたたはごとは、うつかりすると散文藝術家の中からも聞くことがある。--そこで散文藝術といふものが、他に類のない、人生と隣り合せに位置を占めてゐる、非常に愉快な、純粹な藝術であるといふ事を、一寸一言したくなつたわけである。
(散文藝術の位置)

 広津和郎といえば晩年に取り組んだ<松川裁判>が思い浮かぶ。その行動はジャーナリズムや知識人に大きな波紋を投げかけた。室生犀星は「松川のことは自分には解らないが文学に戻って来い」と忠告し、志賀直哉は「広津君に、自分の眼に間違いないと思うんだねと、僕は聞いた。広津君は間違いないと答えた。そのあと、もう一度たずねた。広津君は間違いないと答えた。僕は広津君の眼を信じたのだ」と支援した。結果的にその眼は信じるに値したが、昭和38年9月12日最終判決・全員無罪確定の5年後、9月12日夜半心臓発作をおこし熱海国立病院に入院、21日未明腎不全のため死去した。

 硯友社の作家である父「柳浪廣津直人墓」のまえに建つ「廣津家墓」には娘で作家の広津桃子も合葬されている。左隣りにあるこの墓碑は志賀直哉の筆、裏の碑文は谷崎精二。暑気を吹き飛ばす風の強い日、探しあぐねてやっとたどりついた塋域には烏の群がたむろしていて、激しく揺れる鳴き声と鋭い嘴と大きな眼で私のあやふやさを威嚇していた。

「忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、生き通していく精神」