生沼正三(1925-1968)
大正14年7月3日ー昭和43年7月14日 43歳 (正教院法文信士)
千葉県松戸市八柱霊園


 
 私は昨年岡潔と小林秀雄両氏のあいだにかわされた「人間の建設」という対談を思い出す。この対談で岡潔は芸術家はしょせん無明の世界の住民にとどまることを指摘した。つまり小説とは窮極この世界が、暗黒さながらの暗黒であることの明証にあるというのだ。ドストエーフスキイですらそうだった、と。だから彼らは結局は「無明の世界の達人」にしかなれない。つまり、文学にとっては、自分をのぞく唯一人として救われはしないのである。なるほどドストエーフスキイはおそろしい。動揺にカフカもおそろしい。だがキリストのように、あるいは「人間革命」のように、生きる勇気を読者には決してあたえない。絶望におとし入れる。なぜか。世界の暗黒を証明しただけだからである。それを読んで読者は周囲の暗黒に気付く。救いのない人生であることを知る。こうして文学は凶器になる。人類の、人間の敵になる。しかも、其れをかいたたった一人の男は救われるという背理さえ犯している。なぜならこのせかいが生きるに値しない暗黒さながらの世界であることを描いても、それをかくということは彼にとって絶望ではないということだからだ。暗黒でない世界に現に生きつつあるということだからだ。
(文学における宗教性の復権)

 高見順の「死の淵より」を読んで「死んではならぬ」と呼びかけたというが、昭和43年7月14日午後6時45分、柏市の岡田病院302号室には物言わぬ日沼倫太郎、その人の無念の亡骸があった。「俺はキリをつけるのだ」と夫人に言い遺した言葉を最後に。死因は心筋梗塞と発表されたが、「死」と「生」に濃密な対峙を続けた批評家の急死を悼んで三島由紀夫は「日沼氏と私は、ほとんど死についてしか語り合わなかったやうな気がする。氏は、今から考えれば、死の近い人特有の鋭い洞察力で、私の文学の目ざす方向の危険について、掌を斥すやうによく承知してゐた。氏は会ふたびに、私に即刻自殺することをすすめてゐたのである。(中略)電話でその訃音に接したとき、咄嗟にその死を、私が自殺と思ひちがへたのも無理はあるまい」と記す。2年後、その三島も後を追った。

 「現世が苦の世界の連続であり、さまざまの困難な出来事がつぎつぎとふりかかってくるのをまともに防いだ人々にとっては、無始無終といってよい生死の永遠のくりかえしほど耐えがたいものはあるまい」と、転生をおそれた日沼倫太郎の居処「生沼家之墓」、左右に供えられたシキミの一方が風に倒されたのか墓前に転がって、13回忌に新しく建てられた碑の土底からしっとりと濡れた薄闇色のベールが迫り上がってくる。碑を覆う広大な霊域の空も、まもなく永遠の闇に包まれて私の影さえ判別できなくなってしまうのだろう。梅雨の日のうらぶれた夕暮れに、明瞭な言葉を持って落とす影もないのだが。