玉井勝則(1906-1960)
明治39年1月25日ー昭和35年1月24日 53歳 (文徳院遊誉勝道葦平居士)
北九州市若松区山手町・安養寺

奥の煉瓦塀に数珠繋ぎにされて居た三人の支那兵を、四五人の日本の兵隊が衛兵所の表に連れ出した。敗残兵は一人は四十位とも見える兵隊であったが、後の二人はまだ二十歳に満たないと思われる若い兵隊だった。聞くと、飽く迄抗日を頑張るばかりでなくこちらの問に対して何も答えず、肩をいからし、足をあげて蹴ろうとしたりする。甚しい者は此方の兵隊に唾を吐きかける。それで処分するのだということだった。従いて行ってみると、町外れの広い麦畑に出た。ここらは何処に行っても麦ばかりだ。前から準備してあったらしく、麦を刈り取って少し広場になったところに、横長い深い壕が掘ってあった。縛られた三人の支那兵はその壕を前にして坐らされた。後に廻った一人の曹長が軍刀を抜いた。掛け声と共に打ち降すと、首は毯のように飛ぶ、血が簓のように噴き出して、次々に三人の支那兵は死んだ。
私は眼を反した。私は悪魔になってはいなかった。私はそれを知り、深く安堵した。
(麦と兵隊)
「私は人間の罪というものを考えることが出来なくなった。同時に、永遠も、絶対も、私には空虚なものに映る。一切はそのときどきの感情と条件とによって支配されているにすぎない。生きる支柱となるべき現実の感覚も、その二つの魔力から脱れることはできないのではないか。強弱と勝敗とが最後の切札である戦争の中に、誰が人間の罪を論おうというのか。醜悪な復讐がときに莫しいものに見えるのも、この二つのものの幻術のしわざにすぎぬ。罪は、戦争そのものにある。人間は罪人ではなくして、すでに罰せられたものだ」
(アメリカ探検記)
昭和47年3月1日、朝日新聞に「12年前に世を去った葦平の死因が、これまでいわれていた病死ではなく、睡眠薬による自殺であったことが、このほど、遺族から初めて明らかにされた。」との衝撃的な記事が載った。表紙に「HEALTH MEMO HINO」、「高血圧といふやっかいな病気にとりつかれてしまった。その記録をとっておく。」と最初の頁に書きだされた死の真実を記した「闘病日記」。つづけて「これまで健康すぎ、無理をしたための反動にちがいない。後悔しても追いつかないが、これからは出来るだけ身体に気をつけ、少しでも長生きするやうにしなくてはならない。昭和三十四年十二月七日朝 あしへい」とあったが、死の前日、昭和35年1月23日の頁は「死にます。芥川龍之介とはちがうかも知れないが、或る漠然とした不安のために。すみません。おゆるしください。さようなら。昭和三十五年一月二十四日夜 十一時 あしへい」で終わっていた。
北九州・若松の高塔山中腹、この寺の本堂前に葦平の直筆詞碑が建っている。「言葉さかんなればわざはひ多く/眼鋭くして盲目に似たり/敏き耳豈聾者に及ばんや/不如不語不見不聞」、と三禁の碑、それぞれに口と目と耳をおさえた三猿風の河童の絵が描かれている。戦争を書いて、兵隊を書いて、戦争犯罪人という人もあったようだが、葦平の人生感を彷彿させる詞ではないか。詞碑の前を通り、裏墓地の少しばかりの段を上っていくと、葦平の父玉井金五郎が昭和2年に建てた「玉井家之墓」があり、当時早稲田大学の学生であった長男葦平(本名勝則)の名も刻まれている。大きな碑を見あげていると、捧げられた小さな赤いほおずきが突然動き出し、茎の間から一匹の蛙が間抜けな顔を突き出して、勢いよく飛び跳ねた。