樋口奈津(夏子) (1872-1896)
明治5年3月25日ー明治29年11月23日 24歳 (智相院釋妙葉信女)
築地本願寺和田堀廟所

 我に風月のおもひ有や、いなやをしらず、塵の世をすてゝ深山にはしらんこゝろあるにもあらず、さるを厭世家とゆびさす人あり、そは何のゆゑならん、はかなき草紙にすみつけて世に出せば、常代の秀逸など有ふれたる言の葉をならべて明日はそしらん口の端に、うやうやしきほめ詞などああ侘びしからずや、かゝる界に身を置きてあけくれに見る人の一人も友といへるなく我れをしるもの空しきをおもへば、あやしう一人この世に生れし心地ぞする、我れは女なり、いかにおもへることありともそは世に行ふべき事かあらぬか。
(水の上日記・二十九年二月二十日


 貧乏と辛苦に満ち、勝ち気で誇り高い24年の短い生涯、その最後の2年半余りを過ごしたのは、本郷丸山福山町家賃月3円の借家であった。明治29年春頃から結核の自覚症状があらわれ、7月には高熱が連日つづいた。夏が過ぎ秋がきた。11月23日、一葉の「生涯の物語」は、終わりに追いついてしまった。通夜には斎藤緑雨・川上眉山・戸川秋骨等があつまったが、25日の葬儀会葬者はわずか十数名であったという。

 明治大学和泉校舎の横にある和田堀廟所、桜並木の道を左に入りすぐ右折れした6番目にあったその墓は、こぎれいに掃除された竹組囲いの敷地に「先祖代々之墓」と刻され、その目立たない碑の右側面に「智相院釋妙葉信女」と彫られているのが、一葉の名とかろうじて解るほどのものであった。桜散る頃であれば一層寂しく美しかったであろうが、今は唯沈黙するのみ。
 夏子は知りたや。「一葉の物語」を。「後のこと知りたや。」