後藤寿夫(1903-1975)
明治36年5月30日ー昭和50年10月9日 72歳 (文修院智照房雄居士)
鎌倉・報国寺


 「人間を信用したまえ!」「もし、できればね。」「では、青年を信用したまえ!」「青年の気まぐれをですか。」「青年の純粋さを!理想のために死ねるのは青年だけです。」「理想?−−なぜ野心といわないのです。青年のめくら馬のような野心なら、ぼくも理解できますがね。」「きみは、人間を理解していない。青年をも、野心をも理解していない。そして、いちばんわるいことに、理想とはなんであるか、それを理解していない!」「じゃ、かけましょう!」ビイトは、とつぜん妙なことをいいだした。おどろかされた医師は、小さなメフィストのようにわらっている写真師の顔をみかえした。「え?」「かけるんですよ、金貨を。あなたは、あの青年たちを天使のように純粋だと信じているらしい。ぼくはその逆だ。かけが成立るじゃありませんか。」「わたしは、人間を天使だとも悪魔だともいったおぼえはない。」「ではなんといったのです?」「あの青年たちは理想につかまれている………」「つかまれている?」「そう、理想につかまれている。人は、とくに青年は、ときどき理想につかまれるのです。……あの青年たちは、きっと開国論の主張をつらぬくでしょう。つらぬけなかったら進んで死ぬでしょう。理想がかれらをつかんでいるからです。わしはそれを信している。」「ちょっとわかりかねますね。」「そうです、理想につかまれた経験のないものには、それはわかりかねます。」
(青 年)

 転向作家である。戦前のプロレタリア思想、戦中は日本回帰の思想を作品に表し、戦後は家庭小説という中間小説に身を置き流行作家となった。昭和38年「中央公論」に発表した「大東亜戦争肯定論」は、公職追放処分の因になった右翼思想の復活として大きな議論を呼んだ。昭和11年にプロレタリア作家廃業を宣言して以来住み続けた鎌倉・淨明寺の自宅で胃癌のため死去したのは、昭和50年10月の朝のことであった。

 夕暮れ、禅寺・報国寺山門に鴬の声が聞こえてくる。6月の鴬に戸惑いながら「竹の庭」を周る。竹林の合間、塀の先に墓石の配列が覗く。奥域に足を踏み入れると鎌倉特有の谷戸の墓地風景があった。崖の前、歴代住職墓を背に「林房雄墓」はある。墓誌刻に右翼運動の指導者・政界の黒幕と言われた男の「児玉誉志夫誌之」とあるのはその思想的友好の証なのだろうか。