林フミコ(1903-1951)
明治36年12月31日ー昭和26年6月28日 48歳 (純徳院芙蓉清美大姉)
東京中野・万昌院



 ゆき子は、このまゝ死ぬのではないかと思った。分裂した、冷い自分が、もう一人自分のそばに坐って、一生懸命、死神にとりすがってゐるのだ。死神は、ゆき子の分身の前に現存してゐる……。この女の肉体から、あらゆるものが去りつゝあるのだと宣べて、死神は、勝利の舞ひを、舞ってゐるやうでもあった。胸中に去来するもののなかに、ゆき子は、かすかに、加野の誘ひの声を聞いた気がして、頭をかすかにふった。いままでの生活のなかで、ゆき子は、未練に思ふやうな心残りなものは一つもなかったし、いま、自分のそばに、富岡がゐてくれたにしても、もうすでに、冥府へ、自分だけの乗った汽車は、走り去らうとしてゐる。最後の生命を貫流する、矢つぎ早な、肉体の破壊作用は、いったい、どこから音をたてて崩れてゆくのか、ゆき子は、自分の死の最初を知りたかった。苦しくあへいだ。水が飲みたかった。無鉄砲なほど、健康だった頃の、あの長い旅行の数々が、虹のやうに、とりとめなく瞼に浮かんで来る。未知の世界へ逝く、不安と分裂と混乱が、ゆき子の十本の指のなかに、ピアノのキーを叩くやうな表情で、表現されてゐた。空洞になった肺のなかに、泥ゝの血が溢れてゐるやうな気持ちの悪さだ。
(浮雲)

 その日夜10時頃、仕事過多による疲労を抱えたまま雑誌「主婦の友」の<私の食べあるき>の企画を終え、下落合の自宅にやっと帰り着いた芙美子は、家人に自身の手になるお汁粉を振る舞った後、翌午前1時頃マッサージを受けている途中おそった急性心臓発作により突然の死を迎えた。葬儀は川端康成を葬儀委員長として、今は「林芙美子記念館」となっている下落合・四の坂の自宅で行われ、遺体は邸からも見える落合火葬場で荼毘に付された。

 ゆるい坂の山門を入ると正面に立派な本堂があり、右手には今日的な風景である幼稚園が広い面積を占めていた。本堂左手奥にその墓地はあり、狭い墓域のわりには吉良上野之介、歌川豊國など著名な墓が多くあった。なぜかコーヒー缶と梅花模様の湯飲みが供えられた川端康成の筆になる「林芙美子墓」は、こじんまりと掃除の行き届いた敷地に静かに立っていた。
「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」