長谷川海太郎(1900-1935)
明治33年1月16日ー昭和10年6月29日 36歳 (慧照院不忘日海居士) 
鎌倉・妙本寺


 すね者というと、変につむじまがりか、さもなければ卑屈な人間が多いけれど、この蒲生泰軒先生のように、とてもほがらかに世の中をすねちやった人物は、ちょっとほかに類がないであろう。
 いったい人間には。
 ちやんと家庭をいとなみ、一定の住所をもち、確たる職業につき、それ相応の社会的地位をたもっていこうとする、いわば市民的なおもての生活のかげに。
一面……。
 ともすれぱ無情を感じ隠遁を好み、一笠一杖、全国の名所寺社でも行脚して歩いたら、さぞいいだろうと思うような、反世間的な、放浪的な気もちがあるものです。
人によって、その思う度合いはちがい、また、考えのあらわれ方も異なりますが、だいたい人間は、ことに東洋人は、誰しも、この現実の俗な責任と、それにたいして反動的な、無責任な逃避を欲する心と、内心、この二つのたたかいにはさまれて生きているといっていい。
ですから。
 ここに。
 はじめっからその社会生活を拒絶している人があったとしたら、その人はある意味で、ずば抜けたえらい人だと言わなければなりません。
(丹下左膳)

 新潟に生まれ、中学中退の後、七年に及ぶアメリカ生活で体得した日本人の彷徨する想いを、大正末期から昭和初年にかけて怒濤の如く発表し、江戸川乱歩から<文筆実業家>と評されるほどの流行作家となった彼が、執筆中に急死するのは、昭和10年6月29日、強い雨の朝。病名は脳溢血と発表されたが、持病の喘息からなる窒息死であった。

 ここ妙本寺境内、本堂脇地続きの墓域に影薄い墓がある。冬の午後とはいえ、楓葉の散り乱れた塋域の石塊の上に乗った碑に陽は届かない。<文壇のモンスタア>と称されるほどエネルギッシュな執筆活動を続けた林不忘には、牧逸馬、谷譲次と三つの筆名があったが、時を経て古色とした碑面にようやく読めるのは「長谷川海太郎墓」の文字であった。