長谷川やす(1879-1941)
明治12年10月1日ー昭和16年8月22日 61歳
神奈川県・鶴見総持寺

本名のお貞と、芳町時代の奴の名とあはせて、貞奴と名乗った女優の祖を讃するに、わたしは女優の元祖出雲のお國と同位に置く。世にはその境遇を問はず、道徳保安者の、死んだもののやうな冷静、無知、隷属、卑屈、因循をもって法とし、その條件にすこしでも抵觸すれば、婦徳を云々する。しかし、人は生きてゐる、女性にも激しい血は流れてゐる。人の魂を汚すやうなことは、その人自身の反省にまかせておけばよいではないか? わたしは道學者でない故に、人生に悩みながら繊いノ惡戦苦闘して、切抜けてゆく殊勝さを見ると、涙ぐましいほどにその勇氣を讃へ嘉したく思ふ。
ああ!貞奴。引退の後の晩年は寂寞であらう。功爲り名遂げて身退くとは、古への聖人の言葉である。忘れられるものの寂しさ----それも貴女は味ははねばなるまい。然し貴女は幸福であったと思ふ。何故なら貴女は、愛されもし愛しもし、泣いたのも、笑ったのも、苦しんだのも、悦んだのも、樂しんだのも、慰められたのも、慰めたのもみんな眞剣であった。それゆゑ貴女ほど信實の貴い味を、ほんとに味わったものは少ないであらう。その點で貴女は、眞に生甲斐ある生活をして來たといはれる。わたしは此處に謹んで御身の光輝ある過去に別れを告げよう、左様ならマダム貞奴。
(マダム貞奴)
女流劇作家としての地位も確立した彼女ではあるが、劇作家として世の中に出ようとした理由は、小説を書いては樋口一葉にとうてい及ばないと考えたためという。最後の床で甥の長谷川仁に、その一葉のことを書かなければならないと意欲を示していたが、そのまま昏睡状態に陥り、この日午前3時43分、東京信濃町慶応病院で白血球顆粒細胞減少症により歿した。
ねこじゃらしの生えている土庭の塋域、台石に「長谷川」と刻まれた「先祖代々之墓」が二基と「むさしのの われも土なり をみなえし 時雨」の自筆碑がある。右手前にあるやや小振りの墓に、時雨と末妹の春子の遺骨が納められている。埼玉県北葛飾郡杉戸町木ノ川の共同墓地にも夫三上於菟吉とともに合葬されている。女人解放を目指して、林芙美子、矢田津世子、円地文子、佐多稲子、大田洋子ら多くの女流作家を世に送り出した雑誌「女人芸術」を主宰、気を吐いた彼女だが、今は谷向こうにある女学校の校庭で興じるテニスの音が響く庭の土となったか。