長谷川かな女長谷川かな(1887-1969)
明治20年10月22日ー昭和44年9月22日 82歳 (慈宏院水明日照大姉)
東京・杉並区堀之内・福相寺


長谷川零余子長谷川諧三(1886-1928)
明治19年9月20日ー昭和3年7月27日 41歳 (清浄院零餘子日住居士)
東京・杉並区堀之内・福相寺




呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉

蝶のやうに畳に居れば夕顔咲く

老の恋もあるものよ丘の曼珠沙華

戸にあたる宿なし犬や夜寒き

湯がへりを東菊買うて行く妓かな

(かな女)

あはれ鵜を使ひて見せよ鵜匠達

藤灯りぬ暮色月下を歩み去る

二階から降り来る月のあるじかな

爽かな大地に咲きぬ花ほつり
(零余子)

 昭和3年は悲しい年だった。7月27日、零余子が腸チフスで亡くなった。山陰旅行から帰京後、病の床に伏していたのだが、「立体俳句の講演がある。袴と草鞋を揃えて置いてくれ。」とのうわ言を遺して。その上、49日目の前夜、9月13日には柏木の家を火災で失ってしまった。かな女の悲しみを映した「芭蕉裂く風にいつまで耐えゆことぞ」は、やがて「零余子忌大闇に湧く何の力」となって俳誌「水明」を主宰していくこととなるのだが、それから40年、昭和44年9月22日「秋の蝉死は恐くなしと居士はいふ」の句を遺稿として零余子の待つ空に。

 環状道路を絶え間なく行き交う車両の騒音を、チャコールグレーの空から舞い降りてきた霧雨がやわらかく遮っている。有吉佐和子の碑などもある日蓮宗の古寺・堀之内妙法寺の門前からは、近くの社の秋祭りだろうか、御輿の一行が出発していった。太鼓の音が一筋二筋と、雨のカーテンをふるわせ、路地を辿って、奥まったこの寺の物静かな墓地にまで紛れ込んでくる。「長谷川家之墓」は失われた時を漂わせて薄墨の中。かな女の「羽子板の重きが嬉しつかで立つ」と零余子の「木蓮に翔りし鳥の光り哉」の句が彫られた碑。霧雨が揺れたら、さっきまで鳴いていたはずの虫の声が埋もれてしまった。