原 民喜(1905-1951)
明治38年11月15日ー昭和26年3月13日 46歳 
広島市中区東白島町・円光寺



 泉邸の杜も少しずつ燃えていた。夜になってこの辺まで燃え移って来るといけないし、明るいうちに向岸の方へ渡りたかった。が、そこいらには渡舟も見あたらなかった。長兄たちは橋を廻って向岸へ行くことにし、私と二番目の兄とはまだ渡舟を求めて上流の方へ溯って行った。水に添う狭い石の通路を進んで行くに随って、私はここではじめて、言語に絶する人々の群を見たのである。既に傾いた陽ざしは、あたりの光景を青ざめさせていたが、岸の上にも岸の下にも、そのような人々がいて、水に影を落していた。どのような人々であるか……。男であるのか、女であるのか、殆ど区別もつかない程、顔がくちゃくちゃに腫れ上って、随って眼は糸のようにただ細まり、唇は思いきり欄れ、それに、痛々しい肢体を露出させ、虫の息で彼等は横わっているのであった。私達がその前を通って行くに随ってその奇怪な人々は紬い優しい声で呼びかけた。「水を少し飲ませて下さい」とか、「助けて下さい」とか、殆どみんながみんな訴えごとを持っているのだった。
(夏の花)  

 昭和26年3月13日午後11時30分ころ、西荻窪駅ホーム西側250メートル付近の線路上に一人の男が身を横たえていた。まもなく西荻窪を発車した三鷹行きの電車は、その男を巻き込み50メートルほど引きずって止まった。一輪の花の幻を刻んで原民喜は永遠に口を閉じた。「私は歩み去らう 今こそ消え去って行きたいのだ 透明のなかに 永遠のなかに」

 民喜の下宿には「心願の国」の原稿と、17通の遺書があった。その中の1通は、丸の内の貿易会社に勤める英文タイピスト 祖田裕子にあてたものであった。極端な厭人癖のある民喜の心を、叙情詩のように慰めてくれたこの少女に「とうとう僕は雲雀になって消えて行きます。」の言葉を遺している。原爆に弾き出され、叫喚と混乱の中で死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きようとした民喜の亡骸のある原家の墓碑「倶会一處」。積み上げられた無縁墓のとなりに建っているこの石の望むところ、西方浄土の花園に彼の魂は行き着いたであろうか。