原口統三(1927-1946)
昭和2年1月14日ー昭和21年10月25日 19歳
群馬県・赤城山森の家付近
 


かれは真昼の海に眠る。
茫洋たる音楽のみどりに触れあふ はるかな
蜃気楼の奥深くかれは眠る
あふれる香髪のみだれ巻いて溺れるあたり
とほく水平線の波間にさ青の太陽は溶けこむ。
さうして はるばると潮の流れる耳もとちかく
かれは一つのなつかしい言葉きく
お兄さん! お兄さん! お兄さん……

ああこんな恍惚の夢のやうな日は
どこの海辺で待ってゐるのか
(海に眠る日)

 原口統三は右手を高々と挙げて叫んだ。「僕は死ぬことに決めた。」、まだ明けやらぬ冬の朝だった。統三の壮烈な伝説はこの時から生まれたのだ。血を滴らせるように書き溜めた作品のことごとくを焼き捨て、秋口に書き始めた300枚の原稿「二十歳のエチュード」を遺品として。その年の10月26日、逗子海岸、なぎさホテルの白ペンキで塗られた柵に古ぼけた一高の制帽と風呂敷包みが発見された。内に収められた奇妙な「死人覚え書」。「原籍 鹿児島県鹿児島市竜尾町五番地/戸主 原口統太郎三男 原口統三(昭和二年一月十四日生)/住所 東京都目黒区駒場一高寄宿中寮二十六番室/昭和二十一年十月二十五日夜、神奈川県逗子海岸に於て投身、/遺品はすべて、一高寄宿寮南寮二番室、(又は中寮二十六番室)に居住の都留晃君にお渡し乞ふ、/右 原口統三記す/昭和二十一年十月二十五日」、翌27日、同ホテル前の浜に遺体が上がった。

 彼が詩人であったか、なかったか。中村光夫は断定する。――この「エチュード」の作者は詩の犠牲者であっても、詩人とは云はれない。……ランボオは詩によって手術されたとマラルメは云ったさうであるが、ランボオによって手術された原口君からは不幸にして詩は生まれなかった――と。橋本一明は擁護する。――原口はまず詩人であった。そして、詩人であることの中に人間の自由を見出したという点では、彼は詩人でしかなかった。それが「エチュード」の出発点である――。逗子での入水に先立つ自殺未遂をおこした赤城山森の家、雑木林の笹原のなかに大連一中の同窓有志によって建てられた棒杭のような碑がある。「おお、人生、この、孤独なる詩、この知られざる記念碑よ!お前の冷ややかな石の上に、二十の春秋を刻み終えて、僕は今、立ち去るのだ。」と。自ら望んだ墓碑銘「ここに悩める乙女等の幸ひを祈りつつ世を去りし素朴なる若者眠る」は朽ち果てたか。「二十歳のエチード」はこう締め括られている。――僕はもう自分を誠実であったとも言うまい。沈黙の国に旅立つ前に、深く謝罪しよう。「僕は最後まで誠実でなかった」と。――