羽仁五郎(1901-1983)
明治34年3月29日ー昭和58年12月31日 82歳
雑司ヶ谷霊園

文学は、ひっきょう、白鳥の歌であろうか。すべての芸術の美しさは、かぎりなきものへのかぎりあるものの愛情にあらわされるのであろうか。
日本人は、死しか知らなかった、と云う。しかし、もしそうだとするならば、生を知らずして死を知ることはできないのであろうから、日本人は、しんじつ、死を知っていたとは云うことができないのかもしれない。そして、そこに、武士道とは死ぬこととみつけたり、などといった葉がくれの文句などが、あれほどまでに日本の青年の純情をいけにえにした理由があったのではあるまいか。
「ひとびとこの生をおもんずべし」と云った人の言葉をしるしていた新井自石は、日本においてはじめて自叙伝の文学をつくった。生の意識は、自我または個人の発見なくしてはありえないのであり、個人の発見は、身分に生き身分に死んだ中世の封建主義の社会がたおれて近代の合理主義の社会が生長したところにのみ実現されたということを、日本においても新井白石のような思想家がその端緒をしめしていた、と考えることもできる。それにしても、『おりたく柴の記』、またこれとならんで、日本の初期の自叙伝とかんがえることのできる山鹿素行の『配所残筆』、このふたつのものが、いずれも人生の挫折の運命に画して書かれたものであることも事実である。それは、直接には封建的にうけとられた人生の挫折であったが、人生の挫折であったことにはかわりはない。
(生と死)
戦前、治安維持法違反で獄中の人となったが、非転向を貫き通した強靱な意志を自負として「この間の戦争で監獄の中にいなかった連中は、皆良心を失った連中でしかない」などの過激な言動で反体制の教祖、進歩的知識人の代名詞に位置づけられる羽仁五郎であったが、藤沢市民病院に入院中であった死の1週間前、説子夫人がいつものように額に接吻をして帰ろうとすると、「若いときみたいにしてくれ!」とねだったというエピソードがあるように、晩年は和らいだ気分であったようだ。昭和58年6月8日、肺炎のため遠い眠りにつく。
霜柱をサクサクと踏み砕きながら危うい土道を分け入っていく。間口の長い塋域に自由学園の創始者「羽仁吉一・もと子」と「羽仁五郎・説子」夫妻の墓が並んで建つ。「戦争は今の君の心が起こすのだ。多くの人が平和を望んでいるに違いない。戦争はいやだ、あんな悲惨な思いをするのはもうたくさんだ、と思っているのだろう。それでも、戦争は君の心から起こるのだ。」と警告した反体制教祖の墓。梢を飛び交う小雀や百舌鳥の声だけがデジタル音のようにクリアに聞こえる。自由学園に近い霊園、人影もなく静寂の朝だった。