花田清輝(1909-1974)
明治42年3月29日ー昭和49年9月23日 65歳 
千葉県松戸市八柱霊園



 生のゆたかさがあるように、死のゆたかさもまた、あるのだ。生か、死か、それが問題だ、というハムレットの白(せりふ)は、これから歩きだそうとする人間の、なにか純粋で、精惇な、はげしい意欲を物語る。混沌はどこにでもあり、問題は、これを生によって韻律づけるか、死によって韻律づけるか、ということだ。ここに、この二者択一の意味があるのであって、いずれにせよ、死と生とのいりまじった蕪雑な我々の生涯は、我々の選択が生にたいしてなされようと、死にたいしてなされようと、韻律がながれはじめるとともに、たちまち終止符をうたれてしまうのだ。どうなるものか。からみあっている生と死とをひき裂き、決然とそのどちらかを捨て去ることによって、もはや生きてもいなければ死んでもいないものになってしまった我々は、はじめて歌うことをゆるされる。生涯を賭けて、ただひとつの歌を―――それは、はたして愚劣なことであろうか。
 そこに感傷をいれる余地はない。愚劣なことであろうと、賢明なことであろうと、なんとも仕方のないことだ。生に憑かれ、死に魅いられた人間にのこされていることといえば、駆りたてられるもののように、ただ前へ、前へとすすむことだけであり、海だの、平原だの、動物だの、花々だの――行くさきざきに次々に展開する一切のものを、水を酸素と水素とに分解するように、生と死とに分解し、これにただひとつの韻律をあたえるということだけだ。生の韻律を。或いはまた、死の韻律を。
(復興期の精神・歌)

 埴谷雄高や岡本太郎、野間宏などと「夜の会」を結成し、戦後のアヴァンギャルド芸術運動の理論的指導者として活動、自らの主張を反語や逆説、特有のレトリックで読者を魅了し、あるいは幻惑させてきた花田清輝の立ち位置を渋澤龍彦は永井荷風や石川淳、坂口安吾など戯作者の系列になぞらえている。確かに素面としての自らを晒すことは本意としなかったのだろうが、好敵手・埴谷はその死を悼み「君はまことに多くの貴重な示唆をひとびとに与えて、吾が国の文学と美術の或る側面に新しい閃光を放たたしめる強力な原子核となったのである」と詠んだ。昭和49年9月23日、午前0時25分、脳出血のため東京・信濃町慶応病院で死去。

 成田空港からの航路になっているのか、宙を耕すように飛行機雲が二筋の畝を浮かび上がらせている。蒼みが薄れはじめた球状の天体は静かに降り立つ準備にかかったようだ。那智黒石の下に霜柱の残る塋域、「花田家」墓は沈静そのものであった。安部公房や三島由紀夫の理解者、尾崎翠など無名作家の輝きを読みとる一方、埴谷雄高、吉本隆明らと数々の白熱した論争で名を馳せた華々しくも先鋭的な昂ぶりは終焉し、感傷など受け入れる間もなく、しとどに夕闇が迫ってくる。「一気に老年に達し、死に憑かれ、死とともに生きよう」とした花田は銘する。「虚無とは何か。檣頭を鳥が掠め 泡だつ潮にのって 海草がながれていく。」