浜田広助(1893-1973)
明治26年5月25日ー昭和48年11月17日 80歳 (廣徳院殿童愛錦謡居士) 
神奈川県川崎市・春秋苑



 がい燈は、つぶやきました。「もうもう、これでかまわない。星のように見えなくたっても、おれは、ただ、だまって光っておればよい。それが、おれのつとめなのだ。このままで、この一生が、おわってしまう。それでよい。おれのやくめは、それでよい。」
 そう、きっぱりとじぶんにいって、じぶんでじぶんをなぐさめながら、がい燈は、そこらを、見ました。さっきのがが、まだ、がい燈のまゆのあたりにとまっていました。
 「つい、いましがた、この小さいがに、話をしかけて、はずかしい思いをしたが、もうもう、なにもたずねまい。」
 がい燈は気もちをきちんとひきしめて、あたまを、しっかともたげました。それといっしょに、がい燈のくらい光がさっと明かるくなったように思われました。そこらここらは、とっぷりとくれてしまって、空のようすは、いっそうくらくなっていました。風がざわざわと木の枝をならしてきました。そうして、くらい雲のきれまに、星だけがぴかぴかと光っていました。
 「きっと、あらしになるんだぞ。」        
 と、がい燈は思いました。ランプの光は、もういちど、さっと明かるくひろがるように見えました。ちょうどそのとき、おもいがけない足音がして、だれかがきました。ふたりのようでありました。道をまがって、おとうさんらしい男と、年のころ、十ぐらいの男の子とがあらわれました。ふたりとも、そまつな身なりをしていましたが、からだは、どちらも、じようぶそうにみえました。がい燈のそばまでくると、
 「おとうさん。」
 と、男の子が、よびかけました。
 「ここんとこ、明かるいね。」
 「ああ、これがなくっちゃあるけない。こんな晩には、わけても、そうさ。」
 ふと「男の子は、まっくらな雲のきれまに、星をみつけていいました。
「あの星よりも、明かるいなあ。」
 そういう声をききつけて、がい燈は、おもわず、ガタンとゆれました。じぶんで、それにおどろくとたんに、
 風がはげしく、ふきつけたのでありました。けれども、いっとき、その風にぐっとこらえて、がい燈は、われをわすれてさけびました。
 「かなった。かなった。おれのねがいが。」
 その夜、はげしく、秋のあらしは、ふきあれました。雨も、ざあざあ、ふりつけました。あくる朝、あらしは
 やんで、よわよわしい日が、さしていました。そして、
 こうじのまがるところに、がい燈は、根もとからたおれていました。
 「おや、ここにも、がい燈が、たおれている。」
 と、道をとおる人たちは、ただ、そう思って、がい燈をまたいで過ぎていきました。
(ひとつのねがい)

 人間の善意を本質ととらえ、友情、自己犠牲、孤独、不安、自然、ふるさとや母への愛などが渾然一体となった美しい童話、「日本のアンデルセン」と称えられ、親しまれてきた「ひろすけ童話」。浜田広介は昭和48年11月17日、前立腺ガンのため80歳で永眠するが、一貫して書き続けた諦観的イメージは、子供のための童話というよりも、子守歌がわりに読み聞かせている母親のための童話であったのかも知れない。「人間のさびしいすがたを、児童諸君にそれとなく知らせるということも、わたくしは、むだではないと思います。そこに一つの教訓をあたえようとする意図よりも、孤独なすがたを、時には深くおもわせるという特殊なねらいがあってよく、それをよくつたえるものが文学のしわざであって、孤独の感じをあじわうことから、人間同士になくてはならない親しみ合いが、だいじなものであることを、児童諸君は、おのずからに知るであろうと、わたくしは考えているのであります。」

 小学三年生の学芸会で演じた「泣いた赤おに」の作者が浜田広介だと知ったのはずっと後年になってからであったが、広介のいう孤独や自己犠牲を理解するにはあまりにも幼すぎる年齢だったように思う。生田丘陵の秋霜の降りた土庭、一匹の蟻んこが豆粒ほどの小石のまわりを何回ともなくまわっている。餌を探しているふうでもなく、ねぐらに帰るのでもなく、ただぐるぐると。やがて、何をどう諦めたのか勢いよく傍らの巨きな石塊を登り始めた。黙々と爪先に力を込めて。「花ふくらめば 影やはらかに」と彫られた碑の、どうやら「花」という窪みの横で一休みを決め込むようだ。「濱田家之墓」、晩秋の一光景、時の過ぎゆくのも忘れて私も無抵抗に佇んでいた。
 郷里山形の高畠町一本柳にある浜田家の菩提寺・満福寺にも広介の墓と歌碑があるという。