萩原恭次郎(1899-1938)
明治32年5月23日ー昭和13年11月22日 39歳 (宝積院哲茂恭謳居士)
群馬県前橋市石倉町・林倉寺
 


 その深い谷底には、見えないがぷすぷす清水が湧いてゐるだけで樹木や草が一面鬱蒼としてゐる。春には花をつけて鳥が卵をふかしてゐたり、秋になると樹々が紅葉して美しい景色だ。実に何十年かに一人か二人かがこの谷に下りて行った。下りて行ったものは不思議に再び崖を這ひ上って帰るものはなかった。やぶの中に怪獣か怪鳥がゐるのだろうとも伝はった。私は私として堪へられなさや、悲しさをこの深い計ったことのない谷にもって来ては棄ててゐた。そして何とも言へぬ匂ひを底から吹き上げて来る風から嗅ぐのであった。然しどうしたことか、そこにほちっとも塵芥といふものが溜まらなかった。私も最後はこの谷に下りてゆき帰らない人となりたいと思ふのであった
( 谷 )

 萩原恭次郎が急激な溶血性貧血で死んだのは昭和13年11月22日午前0時15分。国家総動員法が公布され、中国戦線は拡大の一途、日本は戦争一色に塗りつぶされ始めた頃であった。当然、アバンギャルドであり思想的注意人物であった恭次郎は監視の対象となっていたのだが、宿痾の胃病に悩まされ続けていた彼には絶叫するしか術はなかったのだ。「厳冬の地は壮烈な意志に凍りついてゆく/俺は酷烈な寒気に裸の胸をさらしてゐる/来い!来い!/鋼鉄の冬よ何物も清く氷結させる勇者よ/俺は只一すぢの矢となる。」

 前橋文学館からずいぶん歩いてきた。やっとたどり着いた大橋の下に、利根川が白波を際だたせて激しく流れている。袂にたつ詩碑に寄り添って缶ジュースなどを飲みながら一息をついた。「汝は山河と共に生くべし 汝の名は山岳に刻むべし 流水に画くべし」、やがては赤城おろしに吹きさらされて、詩人の意志を凍らせるのだろう。まもなく訪れた菩提寺の「金井家之墓」、すべてが新しく、淡きひかりして過去碑の刻日さえも昨日のことのように思われる。
「高き山々に吹雪きする見れば、白き雪々を啖いて生きしわが心は熱す」