長谷川辰之助(1864-1909)
元治1年2月28日ー明治42年5月10日 45歳
染井霊園

文明爛熟の色、匂、が即ちデカダンスの色であり匂ひであるのだ。此頃の肉慾描寫なんて事も、まア日本の文明の匂が出て来たのだと云へば、最も善意に解してやったわけになるでせう、強烈な刺激を要する本尊は即ち疲労のかたまりだ。かう云ふデカダンスの傾向が若い者の間にも見える。人まねでデカダンスぶられるのも閉口だが、さうなくてはならずになったデカダンスの人々程氣の毒なものはあるまい。
二三日前に正宗君がやって来ましたっけ。始めて逢ったのさ。まづ二人が懐疑論から入ったとするだな、そして藤村操の「巖頭の感」あんな物は俺が死ぬなら俺は書かない、ただ死ぬる。あれを書くうちはまだ未練があるのだと云ふと正宗君が、「私は新聞や雑誌へ「巖頭の感」を書いて居ます。作は私の「巖頭の感」です。作が出来なくなった時は私の死ぬ時です。」とかう言って居た。やっぱり生れて来た甲斐に此世へ何か足跡を残して行きたいと見える。俺はそこが面白いと思ふ。其所が人間さ。
(眼前口頭)
彼の手で翻訳された数々の作品や言文一致の小説は、藤村や独歩などの若い世代に感銘と自覚を与えたが、日露戦争の頃から蝕まれて来た体は、朝日新聞社の通信員としてロシアに赴いた明治42年2月、肺結核による発熱により衰弱の一途をたどる。帰国途中、5月10日午後5時10分、ベンガル湾沖の日本郵船賀茂丸船室にて眠るように死去。シンガポール郊外のバセバンシャンの丘で荼毘に付された。
命日を少し過ぎた5月15日に訪ねた二葉亭四迷の墓は、13回忌の後外語時代の同窓達によって建てられた丈の高い平板な墓石であった。「長谷川辰之助墓」と彫られた右肩に「二葉亭四迷」の文字が小さく添えられて、背後の茂みを遮るように黒ずんだ石面が光っていた。