舟橋聖一(1904-1976)
明治37年12月25日ー昭和51年1月13日 72歳 (文徳院殿青梅秀聖居士) 
多磨霊園 


 雪の量がましたことは、あたりの空気がいよいよ冷え切ってきたことで知れた。スタンドの電気が、二度程スウッと消えかけて又、点いたが、それでも康吉は、小冊子を離さなかった。何といっても初風会の葛藤で、しばらく萎えていた情熱が、又、冴え冴えとよみがえってくるのが自分にわかり、これだけの手ごたえがあれば、淋しいことなんか、ちっともない筈なのに、ややもすれば、自分の能力に、一喜一憂している現状を、もっと力強く克服しなくっては、駄目じゃないか---、今、一奮発足りねえんだなアと、康吉は、小冊子を持ったまま、段々昂奮してきて、身体に血がさすような気がした。この古風な小冊子の記事が、そのまま、康吉の役に立つことはもはや有り得ないにしろ、そのお陰で、康吉の身体に、こんなに泉のように湧いてくるものがあったとしたら、やっぱりこれは、不思議な縁で結びついている伊助の念力みたいなものが、以心伝心、康吉の胸内をゆすぶったにちがいない。その払暁から、雪は更に、勢いをまし、帝都は白一色につつまれたが、夜もすがら、不幸な伊助の骨壺の前に坐りつづけた康吉は、音もなく降りつもる雪のけはいさえ、遂に知らずに。
(悉皆屋康吉)

 昭和51年1月13日、心不全のため日本医科大付属病院で亡くなった舟橋聖一はエロティシズムの作家であった。その技巧と熱気によって人間がもつ逃れられない業を描くことを生涯とした作家であった。但し聖一のモラル・権威主義的性格については多くの論があるが、それも氏の魅力のひとつと数えることができるのかもしれない。その死についても、失明状態で口述筆記によって発表してきた晩年の作品群が提示するようにおよそ「枯れ」とは縁のないものであった。

 この墓の主は艶聞の多い人間であったが、長男を4歳で亡くした昭和7年に建てた碑は、晩夏のまだるっこい残気の立ちこめる霊園の一角で、大樹の濃い影のカーテンを背後に引きまぶしく光る石面に清楚な花束を配して私に対峙している。