福沢諭吉(1834-1901)
天保5年12月12日ー明治34年2月3日 66歳 (大觀院獨立自尊居士)
東京・港区元麻布・善福寺

宇宙の間に我地球の存在するは大海に浮べる芥子の一粒と云ふも中々おろかなり。吾々の名づけて人間と稱する動物は、此芥子粒の上に生れ又死するものにして、生れて其生るゝ所以を知らず、死して其死する所以を知らず、由て來る所を知らず、去て往く所を知らず、五、六尺の身體僅に百年の壽命も得難し、塵の如く埃の如く、溜水に浮沈する孑孑の如し。蜉雖蝣は朝に生れてタに死すと云ふと雖も、人間の壽命に較べて差したる相違にあらず。蚤と蟻と丈くらベしても大象の眼より見れば大小なく、一秒時の遅速を争ふも百年の勘定の上には論ずるに足らず。左れぱ宇宙無邊の考を以て獨り自から觀ずれば、日月も小なり地球も徴なり。況して人間の如き、無智無力見る影もなき蛆蟲同様の小動物にして、石火電光の瞬間、偶然この世に呼吸眠食し、喜怒哀楽の一夢中、忽ち消えて痕なきのみ。然るに彼の凡俗の俗世界に、、貴賤貧冨榮枯盛衰などゝて、孜々経営して心身を勞する其有様は、庭に塚築く蟻の群集が驟雨の襲ひ來るを知らざるが如く、夏の青草に飜々たるばったが俄に秋風の塞きに驚くが如く、可笑しくも亦淺ましき次第なれども、既に世界に生れ出たる上は蛆蟲ながらも相應の覚悟なきを得ず。
(福翁百話)
明治5年に初編刊行された「天は人の上に人を造らずと云へり。」ではじまる「学問のすゝめ」は、空前の売れ行きを示した。政府の登用を固辞し、慶應義塾を軸とした教育、著述と多彩な啓蒙活動に専念したが、明治31年9月26日、福沢は脳出血を病み、それ以後自ら筆を執ることはなかった。明治34年1月25日、脳出血が再発し、2月3日午後10時50分、還らぬ人となった。
本人が生前に選定した墓は、初め上大崎の常光寺にあったが、昭和52年、福沢家の意向により元麻布にあるこの菩提寺の墓地に改装された。元の寺には、慶應義塾記念碑として夫妻の柩の上に埋められてあった銘板をモチーフに、谷口吉郎氏設計の碑が建てられている。善福寺・開山堂前に建つ「福沢諭吉墓」は、その真向かいにひっしと立ち、遙かな年を経て、うねるような深い襞を持つ大公孫樹と談論するかのように面対している。