福地源一郎(1841-1906)
天保12年3月23日ー明治39年1月4日 64歳 (温良院徳誉芳名櫻痴居士)
谷中霊園

日本の文字の衰えたるや久し。我また夢にだに著述を見ずと申さバ、世上に諂ねる先生たちハクルリと眼をむき出し、ダマレ記者吾曹メ、恐れ多くも朝廷にてハ文部省を建て置かれ、大中小の學校を日本全州に取設け、一夫一掃もいろはを知らざれバ之を溝壑に陥るを見るが如くに思召さる、日本あってより以來いまだ今日の盛なる如きハあらずと稱賛せらるべし。吾曹も亦豈に此御世話あるを知らざらんや。只この御世話あるに拘らず、日本の文字の日々に衰える事が目に立ちて見える故に、餘儀なく箇様な嘆息を致したるなり。
(日本文学の不振を嘆ず)
江戸期の長崎に生まれ、幕府に仕える。維新後は新聞人として活躍し、明治21年、櫻痴47歳にして小説家・劇作家に転向、歌舞伎座の創立に尽力したが、明治38年秋より糖尿病、肺結核悪化により病床につく。翌年1月4日、死去。増上寺での葬儀の後、谷中墓地に埋葬された。
塋域からはみ出した枝を避けるように歩く細い詣り道。「福地源一郎之墓」は、赤錆びた鉄棒で繋がれた石柱柵の内に建つ。2メートルを超す碑は頭を植樹の枝葉に突っ込み、いまだに成長しているような様であった。徳川家の墓もある古びたこの墓地の風景は寒々として、吐く息の白さも忽ちのうちに消え失せ、幽かに低く差し込んでくる陽光にようやく温もりを感じていた。