福永武彦(1918-1979)
大正7年3月19日ー昭和54年8月13日 61歳 
雑司ヶ谷霊園

 過去から現在を導き出すことは易しい、昨日の出来ごとから今日の絶望を導き出すことは自然の数だ。しかしその反対に、未来から現在を割り出すことはむつかしいだろう。未来の窮極は死だ、僕はすべてを死から割り出し、死者の眼から物を見て生きよう。死者はその未来に虚無をしか持たず、従ってそのぎりぎりの点から現在を見れば、一日といえども、一瞬といえども、尊いだろう。死者の眼というのは死んだ眼ということではない、空が死に、海が死んで見える眼ではない、人が死の瞬間に於て、ああ自分はよく生きたと思い、もう一切の欲望も空しくなって過去の日々をふりかえる、そういう眼だ。そういう眼で、未来の源から現在を顧るのだ。しかしその未来は明日に尽きるかもしれないし、今この一瞬に尽きるかもしれないのだ。その視点に立って見れば、今日の絶望も或いは明日の僕をつくるのにプラスするものかもしれぬ、そこにはまだまだ可能性がある、今の涙も次の瞬間の悦びとなるかもしれぬ、それは要するに、人間として生き終った最後の時に決定することだ。僕はそれをあらかじめ見よう。死者の眼に映る過去のように、未来に於て現在を見よう。
  
(風土)

 履歴書よりも立派な病歴と言われたほど、病に病を重ね、病院暮らしが生活の一部にもなっていた作家は、むしろその病を恵みとして「死者の眼」から現在を「測量し、常にぎりぎりまで自分の可能性を試みた」が、昭和58年8月、信濃追分で吐血、佐久総合病院で胃の切除手術後、13日午前5時25分、脳出血のため死去。死後キリスト教洗礼があきらかにされた。

 没後20年を経て建てられた墓は、小学生から中学生にかけてのホームグラウンドであったこの雑司ヶ谷の霊園にある。前日の大雨に洗い出された真新しい「福永家之墓」が眩しく輝き、夏草も生き生きと葉を広げている。左側には「跡もなき/波ゆく舟に/あらねども/風ぞ/むかしの/かたみなりける」の碑が建つ。 前日夕刻、大雨の最中に訪れたときは碑面の文字も定かに判別できず、今日改めて出直したのであったが、なんと明るく清々しい奥津城であることか。作家の作品群に通ずる「死」の影を微塵も感じさせることがなかった。