福田英子(1867-1927)
慶応3年10月5日ー昭和2年5月2日 59歳 (江月院妙雲英貞大姉) 
東京・巣鴨 染井霊園


 世に罪深き人を問はゞ、妾は實に其随一ならん、世に愚鈍なる人を求めば、また妾ほどのものはあらざるべし。齢人生の六分に達し、今にして過ぎ來し方を顧みれば、行ひし事として罪悪ならぬはなく、謀慮りし事として誤謬ならぬはなきぞかし。羞悪懺悔、次ぐに苦悶懊悩を以てす、妾が、回顧を充たすものは唯々是のみ、鳴呼實に唯是れのみ也。
 懺悔の苦悶、之れを愈すの道は唯已れを改むるより他にはあらじ。されど如何にしてか其己れを改むべきか、是れ将た一の苫悶なり。苦悶の上の苦悶なり。苦悶を愈すの苦悶なり。苦悶の上又苦悶あり、一の苦悶を愈さんとすれば、生憎に他の苦悶來り、妾や今實に苦悶の合圍の内にあるなり。(中略)
 顧へば女性の身の自から揣らず、年少くして民権自由の聲に狂し、行途の蹉跌再三再四、漸く後の半生を家庭に托するを得たりしかど、一家の計未だ成らざるに、身は早く寡となりぬ。人の世のあぢきなさ、しみじみと骨にも透るばかりなり。若し妾のために同情の一掬を注がるゝものあらば、そはまた世の不幸なる人ならずばあらじ。
(妾の半生涯)

 昭和2年4月初旬、日本橋三越へ買い物に行き、帰宅後の行水がもとで風邪を患い生来の心臓病を併発、5月2日午後6時5分死去。婦人運動の圧倒的な実践者、「女傑」と呼ばれた先覚者も、晩年は孤独と、経済的困難、末子千秋の死など恵まれることがなかった。

 
丸みを帯びた自然石の裏に「婦人解放運動のさきがけ 福田英子をたたえて」とある顕彰碑に「尽誠待天命」の文字が刻まれている。彼女に影響を受けた平塚雷鳥らの「青鞜」運動や多くの活動家の辛苦の汗によって今日、婦人は解放されたが、「景山家之墓」に眠る彼女に、霊園近くの駅前にたむろする女学生の嬌態を見せたくはない。